神野忠知

寛永2年(1625年)~延宝4年(1676年)11月27日

神野忠知の俳句芭蕉が、「先徳多か中にも、宗鑑あり、宗因あり、白炭の忠知ありなん」(初蝉集)と慕った俳人が居る。江戸時代にあって、「木枯らしの言水」と並ぶ渾名を得ながらも、現在では、切腹して果てた俳人として名を残す神野忠知。

忠知の名を高めたのは、「白炭ややかぬむかしの雪の枝」という、松江重頼の佐夜中山集(1664年)に見える句。これが、「白炭の忠知」と呼ばれるきっかけとなった。しかしまた、それは忠知にとって人生の重石となったのかもしれない。死後15年が経過した1691年に発刊された其角の 「雑談集」に、

家を売たるふち瀬にとは、盛衰の至誠をよまれたり。負物いたく成ぬれば、風雅也とても人ゆるさず。されば白炭と聞えし忠知が、
 霜月やあるはなき身の影法師
と辞世して腹切りける。

とある。
神野忠知の俳句その人物は、「俳諧名家全伝」(桃李庵南濤1897年)に「謹厳で毫も行を乱さず」とあるように、非常に厳格な人物だったと思われる。江戸時代末期には、「破枕集」に「白炭はやかぬむかしの雪のえだ」を見つけた柳亭種彦が、似たもの同士が絡み合う勧善懲悪本、「娘金平昔絵草紙」の善なる主人公に仕立て上げた。それを鳴雪が自叙伝の中で取り上げたことから、現代にも名を残す存在とはなった。

いま知られている確かなことは、「白炭の忠知」として名声を得たということと、切腹をしたということ。讒言により汚名を被り、主君の名誉を守るために口を鎖して切腹したという説もある。けれども「娘金平昔絵草紙」に干野屋という屋号があらわれるように、町人だったという説も根強く、切腹に疑問を挟む余地が生ずる。
別の屋号には「材木屋」もあるという。この屋号を鍵として「白炭ややかぬむかしの雪の枝」を見ると、実直な武士として信頼を得ていた忠知が、財政難を救うために材木商人に身を転じた姿が目に浮かぶ。
生木のごとく風雪に耐える男も、型にはまれば空しいものだ…。懸命の努力も報われることなく、責任をとって武士として自刃した。そんな姿があったのかもしれない。伝わる辞世は、あくまで静かで悲しい。

霜月やあるはなき身の影法師 忠知



神野忠知に関する補足

1)神野忠知の俳句など ⇒ 資料1
2)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉
3)宗鑑 ⇒ 山崎宗鑑
4)宗因 ⇒ 西山宗因
5)初蝉集 ⇒ 1696年に刊行された風国編の俳諧集。
6)木枯らしの言水 ⇒ 池西言水
7)松江重頼 ⇒ 資料2
8)其角 ⇒ 宝井其角
9)破枕集 ⇒ 佐夜中山集にやや遅れて、良保によって編集された俳諧集。
10)柳亭種彦 ⇒ 資料3
11)娘金平昔絵草紙 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション
12)鳴雪 ⇒ 内藤鳴雪



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