正岡子規

1867年10月14日(慶応3年9月17日)~1902年(明治35年)9月19日

正岡子規の俳句正岡子規の後半生、死に接してさえも垣間見えるユーモアは、眩しく映る。滑稽を愛する、根からの俳人として生まれた漢。
病牀六尺には、闘病に伴う苦痛が至る所に記されてはいる。けれども、そんな苦しさを書き連ねる中で、死の6日前となる9月13日項に突然、「人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身の上に来るとはちよつと想像せられぬ事である」と書き込むのである。
自身の写生論を病床にまで活用し、苦しみを達観する境地にまで辿り着いていたのだろう。これを見ると、それが、子規の実践してきた俳句のかたちなのだと思えてくる。

死の半日前には、自由の利かない身体を抱き起こしてもらい、筆を取る。そこに絶筆三句と呼ばれる糸瓜の句を記すが、その筆勢には、永遠を生きる者の力強さがある。
既に喀血を経験していた明治25年、25歳の正月には「死ぬものと誰も思はず花の春」と詠んでいる。在原業平の辞世「つひにゆく道とはかねて聞きしかど きのふけふとは思はざりしを」と重なるものを死の10年前に詠み上げ、病床においてもその手を休めることなく、近代日本に大きな足跡を遺した。辞世は

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 子規

佛には、「喉仏」に「死者の姿」が重なる。痰切りの薬とする糸瓜をあしらい、遅すぎたことを暗喩するが、「咲く花」に、次代への希望を薫らせる。



正岡子規に関する補足

1)正岡子規 ⇒ 資料1

2)病牀六尺 ⇒ 青空文庫

3)絶筆三句 ⇒ 資料2

4)死ぬものと誰も思はず花の春 ⇒ 「寒山落木 巻一」明治廿五年新年項

5)在原業平の辞世 ⇒ 在原業平は、平城天皇の孫で六歌仙・三十六歌仙の一人。辞世として伝わるこの和歌は、業平が主人公だとされる伊勢物語の「つひにゆく道」に顕れる。また古今和歌集に「やまひして弱くなりにける時よめる」の詞書とともに載る。



向井千子

???~貞享5年(1688年)5月15日

向井千子の俳句続虚栗に、「花にあかぬ憂世男の憎き哉」という句がある。これを詠んだ向井千子は、松尾芭蕉の高弟である向井去来の年の離れた妹である。高名な医者であった父ゆえに、京都の名家にも顔が利いたに違いない。都を往来する中で詠まれただろうこの句は、その器量を炙り出す。
去来はそんな妹を可愛がり、貞亨3年(1686年)の秋、求めに応じて伊勢参りに連れ立った。去来は三十半ば、千子は二十過ぎだったと言われている。

この二人の旅は、去来の「伊勢紀行」に記されている。そこで千子は「伊勢までのよき道づれよ今朝の雁」と詠み、心を開放する旅のはじまりを告げる。そして道々、その外連味のない性格を爆発させるのである。極まりは、草津で姥が餅を食した時。皺のない餅を差し出して口上を述べる女房を前に、「紅粉を身にたやさねばいつとても 皺の見えざる姥がもち哉」と歌い上げるところ。
千子のこの自由奔放な性格は、その婚期を遅らせたに違いない。「憂世女」として、様々な恋を積み重ね・・・。

けれども、最後の恋は悲しい。旅から程無く、長崎の御船手・清水藤右衛門に嫁したものの、「もえやすく又消えやすき螢哉」の句を遺して死んでしまう。句から察するに、激情に自らの命を手放したかのように思われる。
美人薄命。哀しいものだ。

もえやすく又消えやすき螢哉 千子



向井千子に関する補足

1)向井千子 ⇒ 資料1 向井家は俳諧一家で、兄の震軒・去来・魯町・牡年も俳諧をした。

2)続虚栗 ⇒ 宝井其角編1687年刊行の俳諧集。

3)松尾芭蕉 ⇒ 資料2

4)向井去来 ⇒ 資料3

5)伊勢紀行 ⇒ 貞亨3年8月20日過ぎに宇治から伊勢神宮に向かった。紀行文は1850年に刊行される。芭蕉は跋文に「東西のあはれさひとつ秋の風」の句を添えている。

6)清水藤右衛門 ⇒ 詳細は不明。千子との間に一女をもうけたとの説もある。長崎は、千子の父である向井元升が医学を学んだ土地でもある。

7)もえやすく又消えやすき螢哉 ⇒ 千子の辞世として「いつを昔」(宝井其角編1690年)に載る。


去来抄(向井去来著)に、千子が亡くなった時に土用干している時、偶然にも芭蕉から「なき人の小袖もいまや土用ぼし」の句が届いたとの記述がある。これが芭蕉の追善句である。去来は曠野集(山本荷兮編1689年)に、「いもうとの追善に」として「手のうへにかなしく消る螢かな」の句を遺している。



榎本其角

寛文元年7月17日(1661年8月11日)~宝永4年2月30日(1707年4月2日)

榎本其角の俳句松尾芭蕉第一の高弟として知られる榎本其角。14歳でその門を叩き、師なきあとは江戸座を開き、「洒落風俳諧」を広めた。
大名をはじめ多くの著名人とつながりを持ち、当時は芭蕉以上に人気があった俳人だったとも言える。そして、様々な伝説に彩られる俳人でもあった。
特に知られているのは酒との縁の深さで、「大酒に起きてものうき袷かな」などの句がある。「十五から酒を飲み出て今日の月」の句から見るに、酒を飲み始めたのは芭蕉の許に来てからである。芭蕉は、酒の作法も教えたのだろうか。
いずれにせよ、常に酒の切れることのない暮らしをしていて、吉原に入り浸っていたという。ただ、多くの秀句を遺しているところから、自堕落な飲み方ではなかったのだろう。「今朝たんと飲めや菖の富田酒」などの回文による句もあるところを見ると、酒を飲んでも頭脳明晰、いや、酒を飲むからこそ頭の血の巡りが良くなったのかもしれない。

けれども、38歳となった年に「酒ゆえと病を悟る師走哉」の句を詠む。その後も体調は優れなかったと見え、47歳で亡くなっている。
辞世は、死の7日前に詠まれた「鶯の暁寒しきりぎりす」。この「きりぎりす」は、現在でいうキリギリスではなく、コオロギのこと。コオロギの中には、越冬するカマドコオロギもあるから、春の鴬との取り合わせも無理なことではない。

自らの姿と重ね合わせた「きりぎりす」。それは、芭蕉が斎藤実盛を詠んだ「むざんやな甲の下のきりぎりす」に相通じる。これらの「きりぎりす」に共通するのは、百人一首に選ばれた後京極摂政前太政大臣の「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む」に表れる孤独感である。
この辞世を口遊む時、華々しい人生の裏側にある寂しさを思わずにいられない。名が知れ、成したことも多くある故、次代を担う鴬の明るい声に覚えるのは、この上ない侘しさだったのだろう。

うすらひやわづかに咲ける芹の花 其角



榎本其角に関する補足

1)榎本其角 ⇒ 資料1

2)松尾芭蕉 ⇒ 資料2

3)斎藤実盛 ⇒ 平家物語「実盛最期」で知られる武将。木曾義仲追討で老齢を押して白髪を染めて出陣し、篠原の戦で討たれる。敵であった義仲ではあるが、かつての恩人の死に涙を流した。



藤野古白

1871年9月22日(明治4年8月8日)~1895年(明治28年)4月12日

藤野古白の俳句明治二十八年春、古白の自殺を知った子規は、「春や昔古白といへる男あり」と詠んだ。子規にとって古白は4歳年下の従弟であり、高く評価していた弟子でもあった。けれども古白の方は、華々しく活躍する子規をライバル視していたとも言われている。
同じ語を冠する子規の「春や昔十五万石の城下哉」は、同時期に詠まれたものである。故郷松山の春の穏かさを詠んだもののように理解されることが多いが、従軍途上で寄港した広島の宇品から対岸を望み、在原業平の「月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして」に託して、変わりゆくものの憐れをうたったものと言うべきだろう。

その古白の変節は、恋にあったと言われている。二十の頃、それまで従順寡黙だった男が、隣家の女性のために饒舌になったと。
しかし、操り切れない恋情は、男を狂人へと変えていく。向き合える人間になろうと早稲田の門を叩いたというが、他者に耳を貸さない性が露となり、自らを「天才」と称す。
実際に、天才ではあった。鳴雪はその俳話に子規と古白を比較し、「子規より早く新調の風を得て居つた」と述べ、「先天的の能力は古白の方が余計に富んで居た」とも言っている。
ただ哀しきは、心中の矛先が明らかになるほどに浮き立つ孤独。最後に表した戯曲「人柱築島由来」は、やり場のない心の末路を松王に委ねて探り、「非礼は礼を騙り、無道は道理を騙り、不仁は仁義を騙り…この世は悪魔の騙る浄土なり」と語った上で、「申さじ言わんの胸の裏、潮となって湧くならば、消えゆく泡は世の中の、栄華の夢とご覧ぜよ」と言って、女の自死を見届けた上で最期を迎える。

戯曲の如く自殺を図ったのは4月7日。常に死を口にしていたため、仲間内からは「口先だけだろう」と囁かれていたが、盗んだピストルが激しく火を噴く。
先ず放たれた頭上からの一発は後頭部を掠めただけだったが、二発目が額に留まる。爆音に気付いた家族が駆け付けた時、既に助かる見込みはなかった。
一説には、「人柱築島由来」の不評を嘆いてのことだとも言われているが、その前から自殺願望を抱えていたことは明らか。ひとつの失恋が世の不条理を連鎖的に炙り出し、生きるのが下手な繊細な男を崩壊させてしまった・・・

乞食を葬る月の光かな 古白

行き場を失くした独善が、世に知らるべき宝を奪った瞬間である。



藤野古白に関する補足

1)藤野古白 ⇒ 資料1

2)子規 ⇒ 正岡子規

3)春や昔古白といへる男あり ⇒ 「寒山落木巻四」所収。同時期の子規の俳句に「春や昔十五万石の城下哉」

4)古白の変節 ⇒ 川東碧梧桐「子規を語る」 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション

5)鳴雪 ⇒ 内藤鳴雪

6)鳴雪俳話 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション

7)人柱築島由来 ⇒ 青空文庫



河合曽良

慶安2年(1649年)~宝永7年5月22日(1710年6月18日)

河合曽良の俳句おくの細道に随行した曾良は、今日では最も有名な芭蕉の弟子。ただ、蕉門十哲に含まれるかといえば微妙なところで、多くは外される傾向にある。

この寡黙な男の人生は、決して平たんなものではない。生まれてすぐに養子に出されるも、養父母を亡くし、親類を頼る。その親類のおかげで伊勢長嶋藩に仕官するも、神道に惹かれて、30歳前後で浪人の身。以降は貧しい暮らしにあったと見られ、芭蕉は「深川八貧」の一員に数え上げている。

尤も、その芭蕉からの信頼は厚く、「雪丸げ」(1686年)には、

曾良何某は、此のあたり近く、假に居を占めて、朝な夕なに訪ひつ訪はる。わが喰ひ物いとなむ時は、柴を折りくぶる助けとなり、茶を煮る夜は、来りて氷を叩く。性隠閑を好む人にて、交金を断つ。或る夜雪に訪はれて、
 君火を焚けよきもの見せむ雪まろげ

とある。芭蕉庵近くに居を構え、無償で穏やかに芭蕉の世話をしていたことが分かる。「鹿島詣」や「おくの細道」に誘い出されたのも、当然のことだったのだろう。そして旅においても、詳細な事前調査は芭蕉を喜ばせたし、遺された「曾良旅日記」は、今日の芭蕉研究に欠かすことの出来ないものとなっている。
けれども曾良の句は、そんな実直な性格からは想像もできないほどの無邪気さに溢れている。特に、最後の句と見なされる「春に我乞食やめてもつくしかな」はどうだろう。

この句は、60歳を超えて江戸幕府巡検使に選ばれ、九州に派遣されることが決まった時のものである。それまでは六十六部として、乞食同然の放浪生活をしていたと見られる曾良が、驚くほどのまとまった金子を得て、九州の旅を楽しみにする中で詠み上げた。
「つくし」には、派遣先の「筑紫」に「土筆」が掛けられている。「金をもらってつくしを摘む必要がなくなったというのに、またつくしかよ・・・」というような感じだろうか。この人は、自らの置かれた立場を、常に楽しんできた人のように思う。
結局、訪れた壱岐で死んでしまうが、それも覚悟の上の旅だったのだろう。二十年遡る山中での芭蕉との病の別れにこそ死を見出し、

行行てたふれ伏とも萩の原

と詠んでいる。空の風の如き爽やかな人生を体現したひとである。



神野忠知に関する補足

1)河合曽良 ⇒ 資料1

2)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉

3)蕉門十哲 ⇒ 松尾芭蕉の優れた高弟10人を指す語であるが、其角嵐雪去来丈草以外は諸説ある。

4)深川八貧 ⇒ 江戸深川の芭蕉・曽良・路通・依水・苔水・友五・夕菊・泥芹。元禄元年12月17日に、この8人で「貧」にちなんだ句を詠んだ。

5)雪丸げ ⇒ 河合曽良編「雪まろげ」 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション

6)鹿島詣 ⇒ 貞亨4年(1687年)、中秋の名月を見ようと、曾良・宗波を伴い鹿島の仏頂和尚を訪ねた芭蕉の旅行記「鹿島紀行」。

7)おくの細道 ⇒ 元禄2年(1689年)3月27日からの、芭蕉のもっとも有名な旅行記。

8)曾良旅日記 ⇒ 「おくの細道」の行程を記した曾良の日記。昭和13年に山本安三郎によって発見された。

9)江戸幕府巡検使 ⇒ 江戸幕府が諸国の情勢調査のために派遣したもの。巡見使随員として曽良は参加し、3月1日に江戸を発ち、5月22日に壱岐で病気のために客死。

10)六十六部 ⇒ 諸国の寺社に参詣する巡礼者。古くは、法華経を66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。

11)山中での芭蕉との病の別れ ⇒ 元禄2年「おくの細道」の「山中」に「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、行行てたふれ伏とも萩の原 曾良 と書置たり。行ものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉」とある。



岩田涼菟

1659年(万治2年)~ 享保2年4月28日(1717年6月7日)

岩田涼菟の俳句蕉風を受け継ぐ流派のひとつに伊勢派があり、その重鎮に岩田涼菟の名がある。芭蕉が神宮参拝の折に入門したと言われる、晩年の門人である。
近松門左衛門とも接点があったと見られ、「曾根崎心中」の道行の文句には、偶然居合わせた涼菟の呟きが採用されたとの話も伝わる。真偽の程は定かではないが、それがあの「夢の夢こそ哀れなれ」である。

はたしてこの人は、夢に生きたひとなのかもしれない。ある春、近所の桜を見ようと草履履きで出たのはいいが、京都東山・播州須磨寺を巡って、長崎にまで行ってしまったという逸話がある。
病中吟に「今までは人が病むぞと思ひしにわが身の上にかくの仕合」とあるあたり、事実を肯定できず、夢の中に真実を求めて彷徨った人のように思う。

辞世は「合点じやそのあかつきの子規」。「合点」は、納得の意味よりも俳諧の評点と見た方がいい。そうすれば「あかつきの子規」の姿が、自ずと明確になる。
この辞世にも逸話があって、息を引き取る間際まで「暁のその子規」にしようか「その暁の子規」にしようか迷っていたという。それを、盟友の乙由が「この期に及んで何の迷いがあるか、その暁の子規」と声を荒げて決した。

いずれにせよ、死に臨んで涼菟が認識した己の姿は、暁のホトトギス。古来歌われてきたホトトギスには様々な意味付けがなされるが、「暁のホトトギス」と言った場合には、いの一番に鳴くことが強調される。
つまり、平談俗語を新風として確立し、伊勢派の礎となったこと、それを暁のホトトギスになぞらえた。そして死の間際に初めて、その事実を見つめ、自らの人生に合格点をつけた・・・
乙由は、暁のホトトギスたる涼菟に続くものがあるだろうかと、「何鳥ぞ此跡鳴ぞほととぎす」の追悼句を寄せている。

因みに涼菟は、「ほととぎすほととぎすとて寝入りけり」という句も残している。死に接するまでのホトトギスは、夢をいざなう存在でこそあったのだろう。
いま涼菟の辞世を口遊めば、後徳大寺左大臣の有名な歌「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」が思い出される。暁のホトトギスは、西の空を漂う月となったのかもしれない。

寝る人は寝させて月は晴れにけり 涼菟



岩田涼菟に関する補足

1)岩田涼菟 ⇒ 資料1

2)伊勢派 ⇒ 涼菟が伊勢俳壇の神風館の名号を継承し、中川乙由と合流した一派。卑俗でわかりやすい俳諧が特徴であったが、各務支考の美濃派とともに「支麦の徒」などと呼ばれて蔑まれた。

3)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉

4)曾根崎心中 ⇒ 近松門左衛門の代表的な世話物浄瑠璃。「此の世のなごり 夜もなごり 死に行く身をたとふれば あだしが原の道の霜」で始まる道行の文句が有名な、心中ものである。

5)ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる ⇒ 千載集。小倉百人一首第81番。



久保より江

1884年(明治17年)9月17日~1941年(昭和16年)5月11日

久保より江の俳句現代では、顧みられることも少なくなった女流俳人・久保より江。しかし、煌びやかなしづの女・久女の時代にあってさえ、この女性の右に出るものはいなかった。小説の世界では夏目漱石や泉鏡花などが取り上げ、白蓮との華麗な交流も知られている。
大変な文学好きであり、俳句においては、子規・虚子・枴童を仰ぎ、多彩な知識を存分に発揮。あらためて句集をめくれば、ため息の出るものばかりだ。現代では辛うじて猫の俳句で知られており、「ねこに来る賀状や猫のくすしより」「泣き虫の子猫を親にもどしけり」「猫の子の名なしがさきにもらはれし」などがある。

夫は優秀な医学博士の久保猪之吉で、文学婦人としては風当たりも強かったのだろう。「世間では有閑マダムの標本あつかい」と愚痴をこぼしながらも、学者の妻として、地道に文献の整理などに力を発揮。人前では少しも苦労を見せず、コロコロと笑うような柔軟さを持ち合わせていた。
敢えて言えば、その夫ゆえに偉大なる俳人への道を鎖された。けれどもそれが、この人の幸せだったのだろう。夫が出張の折には無事を祈って「この月よをちかた人にまどかなれ」と詠むような、優しい女性である。夫の死後一年半して、そのあとを追うように脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人に・・・。

うたたねの夢美しやおきごたつ より江

この、人生の終盤に詠まれた俳句のように、久保より江の一生は、冬のあたたかな夢のように過ぎ去った。その句を拾っていくと分かる。俳句とは、人生を豊かにしてくれるツールであると。



久保より江に関する補足

1)久保より江の俳句など ⇒ 資料1

2)しづの女 ⇒ 竹下しづの女は久保より江に関して「花鳥諷詠、客観写生の本道を、上品にすなほに歩むこの貴族的な人」と評している。

3)久女 ⇒ 久保より江は杉田久女に、「私が女流俳人として今の世に尊敬している人は久保夫人です」と言わしめている。

4)夏目漱石 ⇒ 夏目漱石は「吾輩は猫である」の雪江のモデルとしている。

5)泉鏡花 ⇒ 泉鏡花は「櫛巻」の美しい夫人、「星の歌舞伎」の照樹のモデルとしている。

6)白蓮 ⇒ 世紀の駆け落ち「白蓮事件」などで知られる歌人・柳原白蓮。

7)子規 ⇒ 正岡子規とは、祖父の持家であった愚陀仏庵で、夏目漱石を介して1895年に出会う。

8)虚子 ⇒ 高浜虚子は、「より江句文集」序文に「大正・昭和の俳句界にあつて夫人の如きは有数なる作家と云つて差支ない」と寄せている。

9)枴童 ⇒ ホトトギス同人でもあった清原枴童。より江は、大正7年より枴童に師事。

10)句集 ⇒ より江句文集(1928年)

11)久保猪之吉 ⇒ 京都帝国大学福岡医科大学教授で、日本の耳鼻咽喉科学の先駆者。より江夫人の影響で俳句を始めたとも。



神野忠知

寛永2年(1625年)~延宝4年(1676年)11月27日

神野忠知の俳句芭蕉が、「先徳多か中にも、宗鑑あり、宗因あり、白炭の忠知ありなん」(初蝉集)と慕った俳人が居る。江戸時代にあって、「木枯らしの言水」と並ぶ渾名を得ながらも、現在では、切腹して果てた俳人として名を残す神野忠知。

忠知の名を高めたのは、「白炭ややかぬむかしの雪の枝」という、松江重頼の佐夜中山集(1664年)に見える句。これが、「白炭の忠知」と呼ばれるきっかけとなった。しかしまた、それは忠知にとって人生の重石となったのかもしれない。死後15年が経過した1691年に発刊された其角の 「雑談集」に、

家を売たるふち瀬にとは、盛衰の至誠をよまれたり。負物いたく成ぬれば、風雅也とても人ゆるさず。されば白炭と聞えし忠知が、
 霜月やあるはなき身の影法師
と辞世して腹切りける。

とある。
神野忠知の俳句その人物は、「俳諧名家全伝」(桃李庵南濤1897年)に「謹厳で毫も行を乱さず」とあるように、非常に厳格な人物だったと思われる。江戸時代末期には、「破枕集」に「白炭はやかぬむかしの雪のえだ」を見つけた柳亭種彦が、似たもの同士が絡み合う勧善懲悪本、「娘金平昔絵草紙」の善なる主人公に仕立て上げた。それを鳴雪が自叙伝の中で取り上げたことから、現代にも名を残す存在とはなった。

いま知られている確かなことは、「白炭の忠知」として名声を得たということと、切腹をしたということ。讒言により汚名を被り、主君の名誉を守るために口を鎖して切腹したという説もある。けれども「娘金平昔絵草紙」に干野屋という屋号があらわれるように、町人だったという説も根強く、切腹に疑問を挟む余地が生ずる。
別の屋号には「材木屋」もあるという。この屋号を鍵として「白炭ややかぬむかしの雪の枝」を見ると、実直な武士として信頼を得ていた忠知が、財政難を救うために材木商人に身を転じた姿が目に浮かぶ。
生木のごとく風雪に耐える男も、型にはまれば空しいものだ…。懸命の努力も報われることなく、責任をとって武士として自刃した。そんな姿があったのかもしれない。伝わる辞世は、あくまで静かで悲しい。

霜月やあるはなき身の影法師 忠知



神野忠知に関する補足

1)神野忠知の俳句など ⇒ 資料1
2)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉
3)宗鑑 ⇒ 山崎宗鑑
4)宗因 ⇒ 西山宗因
5)初蝉集 ⇒ 1696年に刊行された風国編の俳諧集。
6)木枯らしの言水 ⇒ 池西言水
7)松江重頼 ⇒ 資料2
8)其角 ⇒ 宝井其角
9)破枕集 ⇒ 佐夜中山集にやや遅れて、良保によって編集された俳諧集。
10)柳亭種彦 ⇒ 資料3
11)娘金平昔絵草紙 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション
12)鳴雪 ⇒ 内藤鳴雪