向井千子

???~貞享5年(1688年)5月15日

向井千子の俳句続虚栗に、「花にあかぬ憂世男の憎き哉」という句がある。これを詠んだ向井千子は、松尾芭蕉の高弟である向井去来の年の離れた妹である。高名な医者であった父ゆえに、京都の名家にも顔が利いたに違いない。都を往来する中で詠まれただろうこの句は、その器量を炙り出す。
去来はそんな妹を可愛がり、貞亨3年(1686年)の秋、求めに応じて伊勢参りに連れ立った。去来は三十半ば、千子は二十過ぎだったと言われている。

この二人の旅は、去来の「伊勢紀行」に記されている。そこで千子は「伊勢までのよき道づれよ今朝の雁」と詠み、心を開放する旅のはじまりを告げる。そして道々、その外連味のない性格を爆発させるのである。極まりは、草津で姥が餅を食した時。皺のない餅を差し出して口上を述べる女房を前に、「紅粉を身にたやさねばいつとても 皺の見えざる姥がもち哉」と歌い上げるところ。
千子のこの自由奔放な性格は、その婚期を遅らせたに違いない。「憂世女」として、様々な恋を積み重ね・・・。

けれども、最後の恋は悲しい。旅から程無く、長崎の御船手・清水藤右衛門に嫁したものの、「もえやすく又消えやすき螢哉」の句を遺して死んでしまう。句から察するに、激情に自らの命を手放したかのように思われる。
美人薄命。哀しいものだ。

もえやすく又消えやすき螢哉 千子



向井千子に関する補足

1)向井千子 ⇒ 資料1 向井家は俳諧一家で、兄の震軒・去来・魯町・牡年も俳諧をした。

2)続虚栗 ⇒ 宝井其角編1687年刊行の俳諧集。

3)松尾芭蕉 ⇒ 資料2

4)向井去来 ⇒ 資料3

5)伊勢紀行 ⇒ 貞亨3年8月20日過ぎに宇治から伊勢神宮に向かった。紀行文は1850年に刊行される。芭蕉は跋文に「東西のあはれさひとつ秋の風」の句を添えている。

6)清水藤右衛門 ⇒ 詳細は不明。千子との間に一女をもうけたとの説もある。長崎は、千子の父である向井元升が医学を学んだ土地でもある。

7)もえやすく又消えやすき螢哉 ⇒ 千子の辞世として「いつを昔」(宝井其角編1690年)に載る。


去来抄(向井去来著)に、千子が亡くなった時に土用干している時、偶然にも芭蕉から「なき人の小袖もいまや土用ぼし」の句が届いたとの記述がある。これが芭蕉の追善句である。去来は曠野集(山本荷兮編1689年)に、「いもうとの追善に」として「手のうへにかなしく消る螢かな」の句を遺している。



橋本諦助

1848年?~1874年(明治7年)10月10日

品川来福寺の阿波藍商人墓標群「たよるべき宿へは遠し秋の暮」という句は、橋本諦助という人が詠んだもの。彼は、江戸末期の阿波の農家に生まれ、俳諧の魔力に取り憑かれた。
おそらくは、家族の影響で句を詠み始めたのだろうが、家に背を向け全国行脚。極貧に身を投げ打ち、俳諧仲間に拾われながら食いつなぐも、明治になった東京で、病に倒れて死んでしまった。
品川の来福寺に葬られたというから、大島蓼太の流れを汲む俳人だったのだろう。幸運にも、阿波藩ゆかりの寺に骨を埋めることにはなった。
ただし、その故郷は大変なことに。本来ならば働き盛りの26歳になる男が、乞食同然の姿で、異郷の土となったのである。親類は、腫物に触るかのような扱いで、橋本家の墓地に名前は刻んだ。唯一残されていた掲句を、墓碑の裏側にして。

この一句が、しかし、特別な男を生んだ。橋本夢道ーーープロレタリア俳句を語る時、外すことの出来ない人物である。

少年時代、墓の裏側にまわったことが、全ての始まり。そこに見つけた叔父の句は、小学生の心をも鷲掴みにした。そして、父の反対を押し切り身を投じた世界に、夢のような道が開けたのである。
尤もそれは、茨の道。青年となってからは、商社の番頭の地位を捨ててまで俳句に没頭し、ついには新興俳句弾圧事件に連座。2年もの獄中生活を送る。それでも諦助の句は、彼の頭を離れなかった。いや、苦境に立たされるほどに、より鮮明になって浮かび上がったに違いない。

たよるべき宿へは遠し秋の暮 諦助

ほかに何ひとつ知られていない諦助の句。家も財産も全てを捨てて、徘徊した果てに見つけた男の辞世。それが、新たな時代の旗手を育んだのである。

【補足】
プロレタリア俳句ゆえに前職を解雇となった夢道は、次に商店の支配人となった。その時、「みつまめをギリシャの神は知らざりき」「君知るやこのみつまめの伝説を」のキャッチコピーで売り出したものが「あんみつ」。
橋本諦助という人がいなければ、今日「あんみつ」はなかったし、「あんみつ姫」も生まれなかった。
諦助の目指した宿は、どんなところだったのだろう・・・



橋本諦助に関する補足

1)品川の来福寺 ⇒ 資料1

2)大島蓼太 ⇒ 資料2

3)橋本夢道 ⇒ 資料3

4)新興俳句弾圧事件 ⇒ 反戦俳句を掲載した「京大俳句」が契機となり、治安維持法に基づく俳人に対する言論弾圧事件が起こった。「俳句生活」を創刊した夢道は、1941年に捕まった。



岩田涼菟

1659年(万治2年)~ 享保2年4月28日(1717年6月7日)

岩田涼菟の俳句蕉風を受け継ぐ流派のひとつに伊勢派があり、その重鎮に岩田涼菟の名がある。芭蕉が神宮参拝の折に入門したと言われる、晩年の門人である。
近松門左衛門とも接点があったと見られ、「曾根崎心中」の道行の文句には、偶然居合わせた涼菟の呟きが採用されたとの話も伝わる。真偽の程は定かではないが、それがあの「夢の夢こそ哀れなれ」である。

はたしてこの人は、夢に生きたひとなのかもしれない。ある春、近所の桜を見ようと草履履きで出たのはいいが、京都東山・播州須磨寺を巡って、長崎にまで行ってしまったという逸話がある。
病中吟に「今までは人が病むぞと思ひしにわが身の上にかくの仕合」とあるあたり、事実を肯定できず、夢の中に真実を求めて彷徨った人のように思う。

辞世は「合点じやそのあかつきの子規」。「合点」は、納得の意味よりも俳諧の評点と見た方がいい。そうすれば「あかつきの子規」の姿が、自ずと明確になる。
この辞世にも逸話があって、息を引き取る間際まで「暁のその子規」にしようか「その暁の子規」にしようか迷っていたという。それを、盟友の乙由が「この期に及んで何の迷いがあるか、その暁の子規」と声を荒げて決した。

いずれにせよ、死に臨んで涼菟が認識した己の姿は、暁のホトトギス。古来歌われてきたホトトギスには様々な意味付けがなされるが、「暁のホトトギス」と言った場合には、いの一番に鳴くことが強調される。
つまり、平談俗語を新風として確立し、伊勢派の礎となったこと、それを暁のホトトギスになぞらえた。そして死の間際に初めて、その事実を見つめ、自らの人生に合格点をつけた・・・
乙由は、暁のホトトギスたる涼菟に続くものがあるだろうかと、「何鳥ぞ此跡鳴ぞほととぎす」の追悼句を寄せている。

因みに涼菟は、「ほととぎすほととぎすとて寝入りけり」という句も残している。死に接するまでのホトトギスは、夢をいざなう存在でこそあったのだろう。
いま涼菟の辞世を口遊めば、後徳大寺左大臣の有名な歌「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」が思い出される。暁のホトトギスは、西の空を漂う月となったのかもしれない。

寝る人は寝させて月は晴れにけり 涼菟



岩田涼菟に関する補足

1)岩田涼菟 ⇒ 資料1

2)伊勢派 ⇒ 涼菟が伊勢俳壇の神風館の名号を継承し、中川乙由と合流した一派。卑俗でわかりやすい俳諧が特徴であったが、各務支考の美濃派とともに「支麦の徒」などと呼ばれて蔑まれた。

3)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉

4)曾根崎心中 ⇒ 近松門左衛門の代表的な世話物浄瑠璃。「此の世のなごり 夜もなごり 死に行く身をたとふれば あだしが原の道の霜」で始まる道行の文句が有名な、心中ものである。

5)ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる ⇒ 千載集。小倉百人一首第81番。



久保より江

1884年(明治17年)9月17日~1941年(昭和16年)5月11日

久保より江の俳句現代では、顧みられることも少なくなった女流俳人・久保より江。しかし、煌びやかなしづの女・久女の時代にあってさえ、この女性の右に出るものはいなかった。小説の世界では夏目漱石や泉鏡花などが取り上げ、白蓮との華麗な交流も知られている。
大変な文学好きであり、俳句においては、子規・虚子・枴童を仰ぎ、多彩な知識を存分に発揮。あらためて句集をめくれば、ため息の出るものばかりだ。現代では辛うじて猫の俳句で知られており、「ねこに来る賀状や猫のくすしより」「泣き虫の子猫を親にもどしけり」「猫の子の名なしがさきにもらはれし」などがある。

夫は優秀な医学博士の久保猪之吉で、文学婦人としては風当たりも強かったのだろう。「世間では有閑マダムの標本あつかい」と愚痴をこぼしながらも、学者の妻として、地道に文献の整理などに力を発揮。人前では少しも苦労を見せず、コロコロと笑うような柔軟さを持ち合わせていた。
敢えて言えば、その夫ゆえに偉大なる俳人への道を鎖された。けれどもそれが、この人の幸せだったのだろう。夫が出張の折には無事を祈って「この月よをちかた人にまどかなれ」と詠むような、優しい女性である。夫の死後一年半して、そのあとを追うように脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人に・・・。

うたたねの夢美しやおきごたつ より江

この、人生の終盤に詠まれた俳句のように、久保より江の一生は、冬のあたたかな夢のように過ぎ去った。その句を拾っていくと分かる。俳句とは、人生を豊かにしてくれるツールであると。



久保より江に関する補足

1)久保より江の俳句など ⇒ 資料1

2)しづの女 ⇒ 竹下しづの女は久保より江に関して「花鳥諷詠、客観写生の本道を、上品にすなほに歩むこの貴族的な人」と評している。

3)久女 ⇒ 久保より江は杉田久女に、「私が女流俳人として今の世に尊敬している人は久保夫人です」と言わしめている。

4)夏目漱石 ⇒ 夏目漱石は「吾輩は猫である」の雪江のモデルとしている。

5)泉鏡花 ⇒ 泉鏡花は「櫛巻」の美しい夫人、「星の歌舞伎」の照樹のモデルとしている。

6)白蓮 ⇒ 世紀の駆け落ち「白蓮事件」などで知られる歌人・柳原白蓮。

7)子規 ⇒ 正岡子規とは、祖父の持家であった愚陀仏庵で、夏目漱石を介して1895年に出会う。

8)虚子 ⇒ 高浜虚子は、「より江句文集」序文に「大正・昭和の俳句界にあつて夫人の如きは有数なる作家と云つて差支ない」と寄せている。

9)枴童 ⇒ ホトトギス同人でもあった清原枴童。より江は、大正7年より枴童に師事。

10)句集 ⇒ より江句文集(1928年)

11)久保猪之吉 ⇒ 京都帝国大学福岡医科大学教授で、日本の耳鼻咽喉科学の先駆者。より江夫人の影響で俳句を始めたとも。



神野忠知

寛永2年(1625年)~延宝4年(1676年)11月27日

神野忠知の俳句芭蕉が、「先徳多か中にも、宗鑑あり、宗因あり、白炭の忠知ありなん」(初蝉集)と慕った俳人が居る。江戸時代にあって、「木枯らしの言水」と並ぶ渾名を得ながらも、現在では、切腹して果てた俳人として名を残す神野忠知。

忠知の名を高めたのは、「白炭ややかぬむかしの雪の枝」という、松江重頼の佐夜中山集(1664年)に見える句。これが、「白炭の忠知」と呼ばれるきっかけとなった。しかしまた、それは忠知にとって人生の重石となったのかもしれない。死後15年が経過した1691年に発刊された其角の 「雑談集」に、

家を売たるふち瀬にとは、盛衰の至誠をよまれたり。負物いたく成ぬれば、風雅也とても人ゆるさず。されば白炭と聞えし忠知が、
 霜月やあるはなき身の影法師
と辞世して腹切りける。

とある。
神野忠知の俳句その人物は、「俳諧名家全伝」(桃李庵南濤1897年)に「謹厳で毫も行を乱さず」とあるように、非常に厳格な人物だったと思われる。江戸時代末期には、「破枕集」に「白炭はやかぬむかしの雪のえだ」を見つけた柳亭種彦が、似たもの同士が絡み合う勧善懲悪本、「娘金平昔絵草紙」の善なる主人公に仕立て上げた。それを鳴雪が自叙伝の中で取り上げたことから、現代にも名を残す存在とはなった。

いま知られている確かなことは、「白炭の忠知」として名声を得たということと、切腹をしたということ。讒言により汚名を被り、主君の名誉を守るために口を鎖して切腹したという説もある。けれども「娘金平昔絵草紙」に干野屋という屋号があらわれるように、町人だったという説も根強く、切腹に疑問を挟む余地が生ずる。
別の屋号には「材木屋」もあるという。この屋号を鍵として「白炭ややかぬむかしの雪の枝」を見ると、実直な武士として信頼を得ていた忠知が、財政難を救うために材木商人に身を転じた姿が目に浮かぶ。
生木のごとく風雪に耐える男も、型にはまれば空しいものだ…。懸命の努力も報われることなく、責任をとって武士として自刃した。そんな姿があったのかもしれない。伝わる辞世は、あくまで静かで悲しい。

霜月やあるはなき身の影法師 忠知



神野忠知に関する補足

1)神野忠知の俳句など ⇒ 資料1
2)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉
3)宗鑑 ⇒ 山崎宗鑑
4)宗因 ⇒ 西山宗因
5)初蝉集 ⇒ 1696年に刊行された風国編の俳諧集。
6)木枯らしの言水 ⇒ 池西言水
7)松江重頼 ⇒ 資料2
8)其角 ⇒ 宝井其角
9)破枕集 ⇒ 佐夜中山集にやや遅れて、良保によって編集された俳諧集。
10)柳亭種彦 ⇒ 資料3
11)娘金平昔絵草紙 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション
12)鳴雪 ⇒ 内藤鳴雪