向井千子

???~貞享5年(1688年)5月15日

向井千子の俳句続虚栗に、「花にあかぬ憂世男の憎き哉」という句がある。これを詠んだ向井千子は、松尾芭蕉の高弟である向井去来の年の離れた妹である。高名な医者であった父ゆえに、京都の名家にも顔が利いたに違いない。都を往来する中で詠まれただろうこの句は、その器量を炙り出す。
去来はそんな妹を可愛がり、貞亨3年(1686年)の秋、求めに応じて伊勢参りに連れ立った。去来は三十半ば、千子は二十過ぎだったと言われている。

この二人の旅は、去来の「伊勢紀行」に記されている。そこで千子は「伊勢までのよき道づれよ今朝の雁」と詠み、心を開放する旅のはじまりを告げる。そして道々、その外連味のない性格を爆発させるのである。極まりは、草津で姥が餅を食した時。皺のない餅を差し出して口上を述べる女房を前に、「紅粉を身にたやさねばいつとても 皺の見えざる姥がもち哉」と歌い上げるところ。
千子のこの自由奔放な性格は、その婚期を遅らせたに違いない。「憂世女」として、様々な恋を積み重ね・・・。

けれども、最後の恋は悲しい。旅から程無く、長崎の御船手・清水藤右衛門に嫁したものの、「もえやすく又消えやすき螢哉」の句を遺して死んでしまう。句から察するに、激情に自らの命を手放したかのように思われる。
美人薄命。哀しいものだ。

もえやすく又消えやすき螢哉 千子



向井千子に関する補足

1)向井千子 ⇒ 資料1 向井家は俳諧一家で、兄の震軒・去来・魯町・牡年も俳諧をした。

2)続虚栗 ⇒ 宝井其角編1687年刊行の俳諧集。

3)松尾芭蕉 ⇒ 資料2

4)向井去来 ⇒ 資料3

5)伊勢紀行 ⇒ 貞亨3年8月20日過ぎに宇治から伊勢神宮に向かった。紀行文は1850年に刊行される。芭蕉は跋文に「東西のあはれさひとつ秋の風」の句を添えている。

6)清水藤右衛門 ⇒ 詳細は不明。千子との間に一女をもうけたとの説もある。長崎は、千子の父である向井元升が医学を学んだ土地でもある。

7)もえやすく又消えやすき螢哉 ⇒ 千子の辞世として「いつを昔」(宝井其角編1690年)に載る。


去来抄(向井去来著)に、千子が亡くなった時に土用干している時、偶然にも芭蕉から「なき人の小袖もいまや土用ぼし」の句が届いたとの記述がある。これが芭蕉の追善句である。去来は曠野集(山本荷兮編1689年)に、「いもうとの追善に」として「手のうへにかなしく消る螢かな」の句を遺している。



榎本其角

寛文元年7月17日(1661年8月11日)~宝永4年2月30日(1707年4月2日)

榎本其角の俳句松尾芭蕉第一の高弟として知られる榎本其角。14歳でその門を叩き、師なきあとは江戸座を開き、「洒落風俳諧」を広めた。
大名をはじめ多くの著名人とつながりを持ち、当時は芭蕉以上に人気があった俳人だったとも言える。そして、様々な伝説に彩られる俳人でもあった。
特に知られているのは酒との縁の深さで、「大酒に起きてものうき袷かな」などの句がある。「十五から酒を飲み出て今日の月」の句から見るに、酒を飲み始めたのは芭蕉の許に来てからである。芭蕉は、酒の作法も教えたのだろうか。
いずれにせよ、常に酒の切れることのない暮らしをしていて、吉原に入り浸っていたという。ただ、多くの秀句を遺しているところから、自堕落な飲み方ではなかったのだろう。「今朝たんと飲めや菖の富田酒」などの回文による句もあるところを見ると、酒を飲んでも頭脳明晰、いや、酒を飲むからこそ頭の血の巡りが良くなったのかもしれない。

けれども、38歳となった年に「酒ゆえと病を悟る師走哉」の句を詠む。その後も体調は優れなかったと見え、47歳で亡くなっている。
辞世は、死の7日前に詠まれた「鶯の暁寒しきりぎりす」。この「きりぎりす」は、現在でいうキリギリスではなく、コオロギのこと。コオロギの中には、越冬するカマドコオロギもあるから、春の鴬との取り合わせも無理なことではない。

自らの姿と重ね合わせた「きりぎりす」。それは、芭蕉が斎藤実盛を詠んだ「むざんやな甲の下のきりぎりす」に相通じる。これらの「きりぎりす」に共通するのは、百人一首に選ばれた後京極摂政前太政大臣の「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む」に表れる孤独感である。
この辞世を口遊む時、華々しい人生の裏側にある寂しさを思わずにいられない。名が知れ、成したことも多くある故、次代を担う鴬の明るい声に覚えるのは、この上ない侘しさだったのだろう。

うすらひやわづかに咲ける芹の花 其角



榎本其角に関する補足

1)榎本其角 ⇒ 資料1

2)松尾芭蕉 ⇒ 資料2

3)斎藤実盛 ⇒ 平家物語「実盛最期」で知られる武将。木曾義仲追討で老齢を押して白髪を染めて出陣し、篠原の戦で討たれる。敵であった義仲ではあるが、かつての恩人の死に涙を流した。



戸張富久

???~1825年(文政8年)3月5日

品川来福寺の阿波藍商人墓標群蕎麦御三家の一つ「藪蕎麦」。有名な神田藪蕎麦は、団子坂の竹藪の中の蕎麦屋「蔦屋」の流れを汲むが、おそらくその蔦屋も含め、藪と称する蕎麦屋の起源は、雑司ヶ谷の「爺が蕎麦」にあろう。
爺が蕎麦は、雑司ヶ谷鬼子母神近くの竹藪の一軒家で、「雑司ヶ谷籔の中」と呼ばれて、江戸でも指折りの名店だったという。1735年刊行の「拾遺続江戸砂子」で、「藪」の名をもって登場する最古の「藪蕎麦」である。そして江戸中期となって戸張富久が活躍する頃には、「蕎麦全書」に、その名も「藪の中爺がそば」として掲載される。ただ、蕎麦は美味いが汁が悪いものだから、そば汁を持参して食べに行く者がいたとか。
戸張富久は、喜惣次とも称し、御用彫金で知られる、後藤四郎兵衛の高弟である。国立博物館に収蔵されるほどの小柄や、鍔などを製作する名工であった。
その名工が、どうやら「雑司ヶ谷籔の中」の主人だったらしい。「若葉の梢」(1798年刊)に「勘兵衛」の屋号で載る百姓の店が「藪」とあるから、それを買い取ったものなのだろう。狂歌の大田南畝は、蕎麦屋の富久のことを「見渡せば麦の青葉に藪のそば きつね狸もここへ喜惣次」と歌っている。


鬼子母神の本院である法明寺に、戸張富久の句碑がある。「蕣塚」と呼ばれるものがそれで、得意とした朝顔を、死した富久に代わって友人の酒井抱一が彫り込んでいる。句は、「蕣や久理可羅龍のやさすがた」。朝顔を、不動明王の剣に巻きつく倶利伽羅龍に見立てたものだ。
決して蔦ではない。「朝顔の花一時」の慣用句もある、刹那の花としたところに味がある。燃えるような現を生きる苦しみを、「爺」と呼ばれた柔和な姿で耐え忍んだ末の一句であろう。

蕣や久理可羅龍のやさすがた 富久

人気の象嵌は、地金の中から発せられるような、深い輝きを持っている。小柄に彫られた朝顔の裏側に、しばしばこの句が確認されるという。



戸張富久に関する補足

1)戸張富久 ⇒ 別号に松盛斎・仙里など。生年は不明であるが、1850年頃であると考えられている。息子に、同じ金工の喜久がいる。経営していた蕎麦屋は、富久の死後ほどなくして閉店したといわれている。

2)後藤四郎兵衛 ⇒ 大判の鋳造と墨判および両替屋の分銅の鋳造を請負った後藤家の当主。富久の師は、十三代後藤延乗。

3)大田南畝 ⇒ 1749年~1823年。御家人で狂歌師。別号に蜀山人。

4)酒井抱一 ⇒ 1761年~1829年。権大僧都であり、江戸琳派の祖として知られる絵師。屠龍の号を持つ俳人でもあった。



秋日庵秋之坊

生年不詳~享保3年1月4日(1718年2月3日)

秋日庵秋之坊の俳句極限の生活こそが、人生を彩る言葉を提供してくれる。しかしそれも、真の静けさを身につけてこそ。

幻住庵を訪ねた秋之坊。その遁世者を、「我宿は蚊のちいさきを馳走かな」の句で迎え入れた芭蕉。つまり、豪華に振舞えるものはここにはないが、蚊の羽音のような、世に蔓延る喧騒からは隔離されていると。
退出時には「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」を贈答句とし、やはりここでも、騒がしくあれば死場を見失うものだと、秋之坊は諭される。
清貧を貫いたことで知られる秋之坊であるが、この時までは、幾らかの色気があったのだろう。「金沢に名高い風流の隠士」と言われ、それを鼻に掛けていたところがあったのかもしれない。いや、むしろ名を得るために敢えて武士を捨て隠士となって、西行らしきものを声高に叫んでいたとも思われる。

芭蕉に会って以降の秋之坊は、真の求道者である。ある時は寒さに耐えかね、「寒ければ山より下を飛ぶ雁に物打荷ふ人ぞ恋しき」と、「山」「厂」「物打」「人」から「炭」を形成する和歌を詠み、炭を請うた。虚飾を去り不足を恐れぬ中で、その日を生きるために言葉を選ぶ男が現れたのである。
それはやがて、人生を天に委ねる証を立てたいとの思いにつながり、自らの生を型にはめ、それに忠実に生きたいと願うことにもなる。句による暦作りに着手し、

正月四日よろづ此の世を去るによし

と記したまさにその日、この世を去ったのである。
世間では、兆候の無い死であったと言われている。居合わせていた李東は驚いて、「稲つむと見せて失せけり秋の坊」と詠んでいる。
けれども、定められた日に沿って、自ら命を絶ったように思えてならない。三箇日の神事を終えて残されたるは、浄土への道ひとつであると。「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」の贈答句への返礼とすべく。



秋日庵秋之坊に関する補足

1)秋日庵秋之坊 ⇒ 秋の坊

2)幻住庵 ⇒ 門人の菅沼曲水の世話により、元禄3年(1690年)4月6日から7月23日まで松尾芭蕉が住んでいた庵。現在の滋賀県大津市にある。

3)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉

4)西行 ⇒ 鳥羽天皇の北面武士であったが、23歳で出家し和歌を歌いながら全国行脚した西行法師。

5)寒ければ山より下を飛ぶ雁に物打荷ふ人ぞ恋しき ⇒ 貧しさの中で寒さに耐えかね、豪農である生駒萬子に炭をもらおうと歌った。萬子は「さむければ山より下を飛ぶ雁に物うち荷ふ人をこそやれ」と歌って炭を贈っている。

6)李東 ⇒ 地方の大庄屋で、秋之坊とは俳諧つながりであった。



立羽不角

寛文2年(1662年)~宝暦3年7月21日(1753年8月19日)

立羽不角の俳句世渡り上手の評判で、貧困の中に身を起こし、法眼にまでのぼり詰めた立羽不角。門弟千人を誇ったことから、千翁との名もある。
蕉風全盛の江戸の町では、譬喩を多用する句風が合わなかったのか、その流派を「化鳥風」と呼んで蔑んだ。おそらくは、「芳里袋」に載る不角の跋「身は風鳥のいでたち、何にかかわるべき姿ともおもほえぬよすてびと・・・」から作り上げた名ではあろうが、町民は、化鳥と言われる鵺のような掴みどころの無さを感じて恐れたか。
たしかに、その出で立ちは化け物のようでもある。

この人は、12歳で不卜門を叩き不角の号を得る。その後、経師の店を開きながら浮世草子や怪談集を著して出版するも、あまり当たらなかったと見えて、前句付興行に重点を移す。やがて、それら前句付興行の高点句を句集にして刊行。5句1組で投句料が25銭という安さも手伝い、上京してくる地方藩士を中心に大いに繁盛。ついには、備前岡山藩主池田綱政の後ろ盾を得たのである。
この池田綱政の力添えで、まずは法橋の地位を賜ることになるが、世間はやっかみもあってか、綱政の「夏の夜や長居はふかく(不角)早帰れ」の句に、「蚊(か)の歯も立たずかしこまりだこ」と付けたことを、得るもののために阿っていると批判したのである。

けれども不角は、地位を目的に綱政に従ったのではない。身分あるものに恥をかかさぬために法橋になりたかったのだとの言がある。
何より不角は、自らの名を知らしめて、さらに多くの人との言葉遊びを楽しみたかったのだろう。ついには自らの姓も「立羽根」から「立羽」に改め、名前を「たちばふかく」にしてしまった。

立場不覚になったとは言え、うつつの姿を心得ていたし、帰りゆく場所も知っていた人。辞世は、

空蝉はもとのすがたに返しけり 不角



立羽不角に関する補足

1)立羽不角 ⇒ 資料1

2)法眼 ⇒ 僧位の第二にあたる位階にちなんで、連歌師などに授けられていた敬称。

3)蕉風 ⇒ 松尾芭蕉の広めた俳風。

4)芳里袋 ⇒ 1694年友鴎編の俳諧集。

5)不卜 ⇒ 岡村不卜

6)浮世草子や怪談集 ⇒ 不角の浮世草子に「好色染下地」(1691年)や「花染分」(1692年)、怪談集に「怪談録」(1692年)などがある。

7)前付句 ⇒ 現代の川柳のもとになったとも言われている。当時の俳諧の世界では、発句を重視する傾向にあり、前句付は下に置かれる傾向があった。

8)5句1組で投句料が25銭 ⇒ 現代の金額で300円くらい。

9)法橋 ⇒ 僧位の第三にあたる位階にちなんで、連歌師などに授けられていた敬称。

10)空蝉はもとのすがたに返しけり ⇒ 江戸川区の萬福寺に、この辞世を刻んだ不角の墓がある。墓石に刻まれた命日は6月21日である。



河合曽良

慶安2年(1649年)~宝永7年5月22日(1710年6月18日)

河合曽良の俳句おくの細道に随行した曾良は、今日では最も有名な芭蕉の弟子。ただ、蕉門十哲に含まれるかといえば微妙なところで、多くは外される傾向にある。

この寡黙な男の人生は、決して平たんなものではない。生まれてすぐに養子に出されるも、養父母を亡くし、親類を頼る。その親類のおかげで伊勢長嶋藩に仕官するも、神道に惹かれて、30歳前後で浪人の身。以降は貧しい暮らしにあったと見られ、芭蕉は「深川八貧」の一員に数え上げている。

尤も、その芭蕉からの信頼は厚く、「雪丸げ」(1686年)には、

曾良何某は、此のあたり近く、假に居を占めて、朝な夕なに訪ひつ訪はる。わが喰ひ物いとなむ時は、柴を折りくぶる助けとなり、茶を煮る夜は、来りて氷を叩く。性隠閑を好む人にて、交金を断つ。或る夜雪に訪はれて、
 君火を焚けよきもの見せむ雪まろげ

とある。芭蕉庵近くに居を構え、無償で穏やかに芭蕉の世話をしていたことが分かる。「鹿島詣」や「おくの細道」に誘い出されたのも、当然のことだったのだろう。そして旅においても、詳細な事前調査は芭蕉を喜ばせたし、遺された「曾良旅日記」は、今日の芭蕉研究に欠かすことの出来ないものとなっている。
けれども曾良の句は、そんな実直な性格からは想像もできないほどの無邪気さに溢れている。特に、最後の句と見なされる「春に我乞食やめてもつくしかな」はどうだろう。

この句は、60歳を超えて江戸幕府巡検使に選ばれ、九州に派遣されることが決まった時のものである。それまでは六十六部として、乞食同然の放浪生活をしていたと見られる曾良が、驚くほどのまとまった金子を得て、九州の旅を楽しみにする中で詠み上げた。
「つくし」には、派遣先の「筑紫」に「土筆」が掛けられている。「金をもらってつくしを摘む必要がなくなったというのに、またつくしかよ・・・」というような感じだろうか。この人は、自らの置かれた立場を、常に楽しんできた人のように思う。
結局、訪れた壱岐で死んでしまうが、それも覚悟の上の旅だったのだろう。二十年遡る山中での芭蕉との病の別れにこそ死を見出し、

行行てたふれ伏とも萩の原

と詠んでいる。空の風の如き爽やかな人生を体現したひとである。



神野忠知に関する補足

1)河合曽良 ⇒ 資料1

2)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉

3)蕉門十哲 ⇒ 松尾芭蕉の優れた高弟10人を指す語であるが、其角嵐雪去来丈草以外は諸説ある。

4)深川八貧 ⇒ 江戸深川の芭蕉・曽良・路通・依水・苔水・友五・夕菊・泥芹。元禄元年12月17日に、この8人で「貧」にちなんだ句を詠んだ。

5)雪丸げ ⇒ 河合曽良編「雪まろげ」 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション

6)鹿島詣 ⇒ 貞亨4年(1687年)、中秋の名月を見ようと、曾良・宗波を伴い鹿島の仏頂和尚を訪ねた芭蕉の旅行記「鹿島紀行」。

7)おくの細道 ⇒ 元禄2年(1689年)3月27日からの、芭蕉のもっとも有名な旅行記。

8)曾良旅日記 ⇒ 「おくの細道」の行程を記した曾良の日記。昭和13年に山本安三郎によって発見された。

9)江戸幕府巡検使 ⇒ 江戸幕府が諸国の情勢調査のために派遣したもの。巡見使随員として曽良は参加し、3月1日に江戸を発ち、5月22日に壱岐で病気のために客死。

10)六十六部 ⇒ 諸国の寺社に参詣する巡礼者。古くは、法華経を66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。

11)山中での芭蕉との病の別れ ⇒ 元禄2年「おくの細道」の「山中」に「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、行行てたふれ伏とも萩の原 曾良 と書置たり。行ものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉」とある。



岩田涼菟

1659年(万治2年)~ 享保2年4月28日(1717年6月7日)

岩田涼菟の俳句蕉風を受け継ぐ流派のひとつに伊勢派があり、その重鎮に岩田涼菟の名がある。芭蕉が神宮参拝の折に入門したと言われる、晩年の門人である。
近松門左衛門とも接点があったと見られ、「曾根崎心中」の道行の文句には、偶然居合わせた涼菟の呟きが採用されたとの話も伝わる。真偽の程は定かではないが、それがあの「夢の夢こそ哀れなれ」である。

はたしてこの人は、夢に生きたひとなのかもしれない。ある春、近所の桜を見ようと草履履きで出たのはいいが、京都東山・播州須磨寺を巡って、長崎にまで行ってしまったという逸話がある。
病中吟に「今までは人が病むぞと思ひしにわが身の上にかくの仕合」とあるあたり、事実を肯定できず、夢の中に真実を求めて彷徨った人のように思う。

辞世は「合点じやそのあかつきの子規」。「合点」は、納得の意味よりも俳諧の評点と見た方がいい。そうすれば「あかつきの子規」の姿が、自ずと明確になる。
この辞世にも逸話があって、息を引き取る間際まで「暁のその子規」にしようか「その暁の子規」にしようか迷っていたという。それを、盟友の乙由が「この期に及んで何の迷いがあるか、その暁の子規」と声を荒げて決した。

いずれにせよ、死に臨んで涼菟が認識した己の姿は、暁のホトトギス。古来歌われてきたホトトギスには様々な意味付けがなされるが、「暁のホトトギス」と言った場合には、いの一番に鳴くことが強調される。
つまり、平談俗語を新風として確立し、伊勢派の礎となったこと、それを暁のホトトギスになぞらえた。そして死の間際に初めて、その事実を見つめ、自らの人生に合格点をつけた・・・
乙由は、暁のホトトギスたる涼菟に続くものがあるだろうかと、「何鳥ぞ此跡鳴ぞほととぎす」の追悼句を寄せている。

因みに涼菟は、「ほととぎすほととぎすとて寝入りけり」という句も残している。死に接するまでのホトトギスは、夢をいざなう存在でこそあったのだろう。
いま涼菟の辞世を口遊めば、後徳大寺左大臣の有名な歌「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」が思い出される。暁のホトトギスは、西の空を漂う月となったのかもしれない。

寝る人は寝させて月は晴れにけり 涼菟



岩田涼菟に関する補足

1)岩田涼菟 ⇒ 資料1

2)伊勢派 ⇒ 涼菟が伊勢俳壇の神風館の名号を継承し、中川乙由と合流した一派。卑俗でわかりやすい俳諧が特徴であったが、各務支考の美濃派とともに「支麦の徒」などと呼ばれて蔑まれた。

3)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉

4)曾根崎心中 ⇒ 近松門左衛門の代表的な世話物浄瑠璃。「此の世のなごり 夜もなごり 死に行く身をたとふれば あだしが原の道の霜」で始まる道行の文句が有名な、心中ものである。

5)ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる ⇒ 千載集。小倉百人一首第81番。



小杉一笑

承応2年(1653年)~元禄元年(1688年)12月6日

小杉一笑の俳句「おくの細道」の旅で、加賀の茶商でもある小杉一笑に会うことを楽しみにしていた松尾芭蕉。一笑は、貞享年間に蕉門を叩いた新参者ではあったが、貞門・談林では名を馳せた人。

おそらくは仕事の関係で京都に滞在する中、句作を始めたのだろう。松江重頼に傾倒していたと見られるも、重頼の死に伴い、流行していた談林派に移行。常に新風を求める気分は、ついに蕉風に及んだ。
時は貞亨4年というから、命が果てる一年余り前。蕉門下の江左尚白が編集した「孤松」に初めてその名が現れ、来訪が噂される芭蕉のことを、金沢の地で待ち侘びた。その句に、「さびしさに壁の草摘五月哉」。
もっとも、この時はまだ、芭蕉の「夏草」を知らない。一笑との接見を盛り込んだ「おくの細道」へ芭蕉が出向くのは、その死後三月が経過してからである。もしも面会が叶ったなら、芭蕉は真っ先に「夏草」の句を披露していただろう。けれども、一笑の兄である丿松が催した追善に、「塚も動け我泣声は秋の風」と声を絞り出すしかなかった。

一笑の辞世は「心から雪うつくしや西の雲」。流れ来る大地の母雲のようなものを追い求め、心から愛でた人だったのだろう。誰からも愛された人のように思う。
追悼に寄せられた句は、故人の人柄を物語る。

よしや只あゝよしや只秋の暮 乙州



小杉一笑に関する補足

1)小杉一笑 ⇒ 資料1

2)おくの細道 ⇒ 芭蕉の死後1702年に刊行された紀行作品。元禄2年(1689年)3月27日に採荼庵を出発してからのことが記されており、金沢には7月15日から24日まで滞在している。随行した曾良の旅日記では、7月15日に金沢の宿に入ってから連絡を入れ、初めて一笑の死を知ったとある。

3)松尾芭蕉 ⇒ 資料2

4)貞門 ⇒ 松永貞徳を中心とする一派。俳言を用い、縁語や掛詞を使用する技巧的な句を特徴とする。

5)談林 ⇒ 西山宗因を中心に据えた一派。貞門に飽きた人々が、奇抜さを競った。

6)松江重頼 ⇒ 資料3

7)蕉風 ⇒ 松尾芭蕉の広めた俳風。

8)貞亨4年 ⇒ 1687年2月12日~1688年1月3日

9)江左尚白 ⇒ 近江蕉門。医師でもあった。当初は貞門派。

10)夏草 ⇒ 松尾芭蕉が「おくのほそ道」平泉で元禄2年(1689年)5月13日に詠んだ「夏草や兵どもが夢のあと」。

11)丿松が催した追善 ⇒ 元禄2年(1689年)7月22日。芭蕉が金沢に逗留したのは、曾良の病と一笑の追善のためか。

12)乙州 ⇒ 大津の荷問屋・河合乙州。江左尚白に師事。商用で金沢に滞在していた折、「おくのほそ道」で立ち寄った芭蕉と会い入門。以降、近江蕉門の重鎮として、経済的にも芭蕉を支える。



神野忠知

寛永2年(1625年)~延宝4年(1676年)11月27日

神野忠知の俳句芭蕉が、「先徳多か中にも、宗鑑あり、宗因あり、白炭の忠知ありなん」(初蝉集)と慕った俳人が居る。江戸時代にあって、「木枯らしの言水」と並ぶ渾名を得ながらも、現在では、切腹して果てた俳人として名を残す神野忠知。

忠知の名を高めたのは、「白炭ややかぬむかしの雪の枝」という、松江重頼の佐夜中山集(1664年)に見える句。これが、「白炭の忠知」と呼ばれるきっかけとなった。しかしまた、それは忠知にとって人生の重石となったのかもしれない。死後15年が経過した1691年に発刊された其角の 「雑談集」に、

家を売たるふち瀬にとは、盛衰の至誠をよまれたり。負物いたく成ぬれば、風雅也とても人ゆるさず。されば白炭と聞えし忠知が、
 霜月やあるはなき身の影法師
と辞世して腹切りける。

とある。
神野忠知の俳句その人物は、「俳諧名家全伝」(桃李庵南濤1897年)に「謹厳で毫も行を乱さず」とあるように、非常に厳格な人物だったと思われる。江戸時代末期には、「破枕集」に「白炭はやかぬむかしの雪のえだ」を見つけた柳亭種彦が、似たもの同士が絡み合う勧善懲悪本、「娘金平昔絵草紙」の善なる主人公に仕立て上げた。それを鳴雪が自叙伝の中で取り上げたことから、現代にも名を残す存在とはなった。

いま知られている確かなことは、「白炭の忠知」として名声を得たということと、切腹をしたということ。讒言により汚名を被り、主君の名誉を守るために口を鎖して切腹したという説もある。けれども「娘金平昔絵草紙」に干野屋という屋号があらわれるように、町人だったという説も根強く、切腹に疑問を挟む余地が生ずる。
別の屋号には「材木屋」もあるという。この屋号を鍵として「白炭ややかぬむかしの雪の枝」を見ると、実直な武士として信頼を得ていた忠知が、財政難を救うために材木商人に身を転じた姿が目に浮かぶ。
生木のごとく風雪に耐える男も、型にはまれば空しいものだ…。懸命の努力も報われることなく、責任をとって武士として自刃した。そんな姿があったのかもしれない。伝わる辞世は、あくまで静かで悲しい。

霜月やあるはなき身の影法師 忠知



神野忠知に関する補足

1)神野忠知の俳句など ⇒ 資料1
2)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉
3)宗鑑 ⇒ 山崎宗鑑
4)宗因 ⇒ 西山宗因
5)初蝉集 ⇒ 1696年に刊行された風国編の俳諧集。
6)木枯らしの言水 ⇒ 池西言水
7)松江重頼 ⇒ 資料2
8)其角 ⇒ 宝井其角
9)破枕集 ⇒ 佐夜中山集にやや遅れて、良保によって編集された俳諧集。
10)柳亭種彦 ⇒ 資料3
11)娘金平昔絵草紙 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション
12)鳴雪 ⇒ 内藤鳴雪