岩田涼菟

1659年(万治2年)~ 享保2年4月28日(1717年6月7日)

岩田涼菟の俳句蕉風を受け継ぐ流派のひとつに伊勢派があり、その重鎮に岩田涼菟の名がある。芭蕉が神宮参拝の折に入門したと言われる、晩年の門人である。
近松門左衛門とも接点があったと見られ、「曾根崎心中」の道行の文句には、偶然居合わせた涼菟の呟きが採用されたとの話も伝わる。真偽の程は定かではないが、それがあの「夢の夢こそ哀れなれ」である。

はたしてこの人は、夢に生きたひとなのかもしれない。ある春、近所の桜を見ようと草履履きで出たのはいいが、京都東山・播州須磨寺を巡って、長崎にまで行ってしまったという逸話がある。
病中吟に「今までは人が病むぞと思ひしにわが身の上にかくの仕合」とあるあたり、事実を肯定できず、夢の中に真実を求めて彷徨った人のように思う。

辞世は「合点じやそのあかつきの子規」。「合点」は、納得の意味よりも俳諧の評点と見た方がいい。そうすれば「あかつきの子規」の姿が、自ずと明確になる。
この辞世にも逸話があって、息を引き取る間際まで「暁のその子規」にしようか「その暁の子規」にしようか迷っていたという。それを、盟友の乙由が「この期に及んで何の迷いがあるか、その暁の子規」と声を荒げて決した。

いずれにせよ、死に臨んで涼菟が認識した己の姿は、暁のホトトギス。古来歌われてきたホトトギスには様々な意味付けがなされるが、「暁のホトトギス」と言った場合には、いの一番に鳴くことが強調される。
つまり、平談俗語を新風として確立し、伊勢派の礎となったこと、それを暁のホトトギスになぞらえた。そして死の間際に初めて、その事実を見つめ、自らの人生に合格点をつけた・・・
乙由は、暁のホトトギスたる涼菟に続くものがあるだろうかと、「何鳥ぞ此跡鳴ぞほととぎす」の追悼句を寄せている。

因みに涼菟は、「ほととぎすほととぎすとて寝入りけり」という句も残している。死に接するまでのホトトギスは、夢をいざなう存在でこそあったのだろう。
いま涼菟の辞世を口遊めば、後徳大寺左大臣の有名な歌「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」が思い出される。暁のホトトギスは、西の空を漂う月となったのかもしれない。

寝る人は寝させて月は晴れにけり 涼菟



岩田涼菟に関する補足

1)岩田涼菟 ⇒ 資料1

2)伊勢派 ⇒ 涼菟が伊勢俳壇の神風館の名号を継承し、中川乙由と合流した一派。卑俗でわかりやすい俳諧が特徴であったが、各務支考の美濃派とともに「支麦の徒」などと呼ばれて蔑まれた。

3)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉

4)曾根崎心中 ⇒ 近松門左衛門の代表的な世話物浄瑠璃。「此の世のなごり 夜もなごり 死に行く身をたとふれば あだしが原の道の霜」で始まる道行の文句が有名な、心中ものである。

5)ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる ⇒ 千載集。小倉百人一首第81番。



小杉一笑

承応2年(1653年)~元禄元年(1688年)12月6日

小杉一笑の俳句「おくの細道」の旅で、加賀の茶商でもある小杉一笑に会うことを楽しみにしていた松尾芭蕉。一笑は、貞享年間に蕉門を叩いた新参者ではあったが、貞門・談林では名を馳せた人。

おそらくは仕事の関係で京都に滞在する中、句作を始めたのだろう。松江重頼に傾倒していたと見られるも、重頼の死に伴い、流行していた談林派に移行。常に新風を求める気分は、ついに蕉風に及んだ。
時は貞亨4年というから、命が果てる一年余り前。蕉門下の江左尚白が編集した「孤松」に初めてその名が現れ、来訪が噂される芭蕉のことを、金沢の地で待ち侘びた。その句に、「さびしさに壁の草摘五月哉」。
もっとも、この時はまだ、芭蕉の「夏草」を知らない。一笑との接見を盛り込んだ「おくの細道」へ芭蕉が出向くのは、その死後三月が経過してからである。もしも面会が叶ったなら、芭蕉は真っ先に「夏草」の句を披露していただろう。けれども、一笑の兄である丿松が催した追善に、「塚も動け我泣声は秋の風」と声を絞り出すしかなかった。

一笑の辞世は「心から雪うつくしや西の雲」。流れ来る大地の母雲のようなものを追い求め、心から愛でた人だったのだろう。誰からも愛された人のように思う。
追悼に寄せられた句は、故人の人柄を物語る。

よしや只あゝよしや只秋の暮 乙州



小杉一笑に関する補足

1)小杉一笑 ⇒ 資料1

2)おくの細道 ⇒ 芭蕉の死後1702年に刊行された紀行作品。元禄2年(1689年)3月27日に採荼庵を出発してからのことが記されており、金沢には7月15日から24日まで滞在している。随行した曾良の旅日記では、7月15日に金沢の宿に入ってから連絡を入れ、初めて一笑の死を知ったとある。

3)松尾芭蕉 ⇒ 資料2

4)貞門 ⇒ 松永貞徳を中心とする一派。俳言を用い、縁語や掛詞を使用する技巧的な句を特徴とする。

5)談林 ⇒ 西山宗因を中心に据えた一派。貞門に飽きた人々が、奇抜さを競った。

6)松江重頼 ⇒ 資料3

7)蕉風 ⇒ 松尾芭蕉の広めた俳風。

8)貞亨4年 ⇒ 1687年2月12日~1688年1月3日

9)江左尚白 ⇒ 近江蕉門。医師でもあった。当初は貞門派。

10)夏草 ⇒ 松尾芭蕉が「おくのほそ道」平泉で元禄2年(1689年)5月13日に詠んだ「夏草や兵どもが夢のあと」。

11)丿松が催した追善 ⇒ 元禄2年(1689年)7月22日。芭蕉が金沢に逗留したのは、曾良の病と一笑の追善のためか。

12)乙州 ⇒ 大津の荷問屋・河合乙州。江左尚白に師事。商用で金沢に滞在していた折、「おくのほそ道」で立ち寄った芭蕉と会い入門。以降、近江蕉門の重鎮として、経済的にも芭蕉を支える。



久保より江

1884年(明治17年)9月17日~1941年(昭和16年)5月11日

久保より江の俳句現代では、顧みられることも少なくなった女流俳人・久保より江。しかし、煌びやかなしづの女・久女の時代にあってさえ、この女性の右に出るものはいなかった。小説の世界では夏目漱石や泉鏡花などが取り上げ、白蓮との華麗な交流も知られている。
大変な文学好きであり、俳句においては、子規・虚子・枴童を仰ぎ、多彩な知識を存分に発揮。あらためて句集をめくれば、ため息の出るものばかりだ。現代では辛うじて猫の俳句で知られており、「ねこに来る賀状や猫のくすしより」「泣き虫の子猫を親にもどしけり」「猫の子の名なしがさきにもらはれし」などがある。

夫は優秀な医学博士の久保猪之吉で、文学婦人としては風当たりも強かったのだろう。「世間では有閑マダムの標本あつかい」と愚痴をこぼしながらも、学者の妻として、地道に文献の整理などに力を発揮。人前では少しも苦労を見せず、コロコロと笑うような柔軟さを持ち合わせていた。
敢えて言えば、その夫ゆえに偉大なる俳人への道を鎖された。けれどもそれが、この人の幸せだったのだろう。夫が出張の折には無事を祈って「この月よをちかた人にまどかなれ」と詠むような、優しい女性である。夫の死後一年半して、そのあとを追うように脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人に・・・。

うたたねの夢美しやおきごたつ より江

この、人生の終盤に詠まれた俳句のように、久保より江の一生は、冬のあたたかな夢のように過ぎ去った。その句を拾っていくと分かる。俳句とは、人生を豊かにしてくれるツールであると。



久保より江に関する補足

1)久保より江の俳句など ⇒ 資料1

2)しづの女 ⇒ 竹下しづの女は久保より江に関して「花鳥諷詠、客観写生の本道を、上品にすなほに歩むこの貴族的な人」と評している。

3)久女 ⇒ 久保より江は杉田久女に、「私が女流俳人として今の世に尊敬している人は久保夫人です」と言わしめている。

4)夏目漱石 ⇒ 夏目漱石は「吾輩は猫である」の雪江のモデルとしている。

5)泉鏡花 ⇒ 泉鏡花は「櫛巻」の美しい夫人、「星の歌舞伎」の照樹のモデルとしている。

6)白蓮 ⇒ 世紀の駆け落ち「白蓮事件」などで知られる歌人・柳原白蓮。

7)子規 ⇒ 正岡子規とは、祖父の持家であった愚陀仏庵で、夏目漱石を介して1895年に出会う。

8)虚子 ⇒ 高浜虚子は、「より江句文集」序文に「大正・昭和の俳句界にあつて夫人の如きは有数なる作家と云つて差支ない」と寄せている。

9)枴童 ⇒ ホトトギス同人でもあった清原枴童。より江は、大正7年より枴童に師事。

10)句集 ⇒ より江句文集(1928年)

11)久保猪之吉 ⇒ 京都帝国大学福岡医科大学教授で、日本の耳鼻咽喉科学の先駆者。より江夫人の影響で俳句を始めたとも。



神野忠知

寛永2年(1625年)~延宝4年(1676年)11月27日

神野忠知の俳句芭蕉が、「先徳多か中にも、宗鑑あり、宗因あり、白炭の忠知ありなん」(初蝉集)と慕った俳人が居る。江戸時代にあって、「木枯らしの言水」と並ぶ渾名を得ながらも、現在では、切腹して果てた俳人として名を残す神野忠知。

忠知の名を高めたのは、「白炭ややかぬむかしの雪の枝」という、松江重頼の佐夜中山集(1664年)に見える句。これが、「白炭の忠知」と呼ばれるきっかけとなった。しかしまた、それは忠知にとって人生の重石となったのかもしれない。死後15年が経過した1691年に発刊された其角の 「雑談集」に、

家を売たるふち瀬にとは、盛衰の至誠をよまれたり。負物いたく成ぬれば、風雅也とても人ゆるさず。されば白炭と聞えし忠知が、
 霜月やあるはなき身の影法師
と辞世して腹切りける。

とある。
神野忠知の俳句その人物は、「俳諧名家全伝」(桃李庵南濤1897年)に「謹厳で毫も行を乱さず」とあるように、非常に厳格な人物だったと思われる。江戸時代末期には、「破枕集」に「白炭はやかぬむかしの雪のえだ」を見つけた柳亭種彦が、似たもの同士が絡み合う勧善懲悪本、「娘金平昔絵草紙」の善なる主人公に仕立て上げた。それを鳴雪が自叙伝の中で取り上げたことから、現代にも名を残す存在とはなった。

いま知られている確かなことは、「白炭の忠知」として名声を得たということと、切腹をしたということ。讒言により汚名を被り、主君の名誉を守るために口を鎖して切腹したという説もある。けれども「娘金平昔絵草紙」に干野屋という屋号があらわれるように、町人だったという説も根強く、切腹に疑問を挟む余地が生ずる。
別の屋号には「材木屋」もあるという。この屋号を鍵として「白炭ややかぬむかしの雪の枝」を見ると、実直な武士として信頼を得ていた忠知が、財政難を救うために材木商人に身を転じた姿が目に浮かぶ。
生木のごとく風雪に耐える男も、型にはまれば空しいものだ…。懸命の努力も報われることなく、責任をとって武士として自刃した。そんな姿があったのかもしれない。伝わる辞世は、あくまで静かで悲しい。

霜月やあるはなき身の影法師 忠知



神野忠知に関する補足

1)神野忠知の俳句など ⇒ 資料1
2)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉
3)宗鑑 ⇒ 山崎宗鑑
4)宗因 ⇒ 西山宗因
5)初蝉集 ⇒ 1696年に刊行された風国編の俳諧集。
6)木枯らしの言水 ⇒ 池西言水
7)松江重頼 ⇒ 資料2
8)其角 ⇒ 宝井其角
9)破枕集 ⇒ 佐夜中山集にやや遅れて、良保によって編集された俳諧集。
10)柳亭種彦 ⇒ 資料3
11)娘金平昔絵草紙 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション
12)鳴雪 ⇒ 内藤鳴雪