小杉一笑

承応2年(1653年)~元禄元年(1688年)12月6日

小杉一笑の俳句「おくの細道」の旅で、加賀の茶商でもある小杉一笑に会うことを楽しみにしていた松尾芭蕉。一笑は、貞享年間に蕉門を叩いた新参者ではあったが、貞門・談林では名を馳せた人。

おそらくは仕事の関係で京都に滞在する中、句作を始めたのだろう。松江重頼に傾倒していたと見られるも、重頼の死に伴い、流行していた談林派に移行。常に新風を求める気分は、ついに蕉風に及んだ。
時は貞亨4年というから、命が果てる一年余り前。蕉門下の江左尚白が編集した「孤松」に初めてその名が現れ、来訪が噂される芭蕉のことを、金沢の地で待ち侘びた。その句に、「さびしさに壁の草摘五月哉」。
もっとも、この時はまだ、芭蕉の「夏草」を知らない。一笑との接見を盛り込んだ「おくの細道」へ芭蕉が出向くのは、その死後三月が経過してからである。もしも面会が叶ったなら、芭蕉は真っ先に「夏草」の句を披露していただろう。けれども、一笑の兄である丿松が催した追善に、「塚も動け我泣声は秋の風」と声を絞り出すしかなかった。

一笑の辞世は「心から雪うつくしや西の雲」。流れ来る大地の母雲のようなものを追い求め、心から愛でた人だったのだろう。誰からも愛された人のように思う。
追悼に寄せられた句は、故人の人柄を物語る。

よしや只あゝよしや只秋の暮 乙州



小杉一笑に関する補足

1)小杉一笑 ⇒ 資料1

2)おくの細道 ⇒ 芭蕉の死後1702年に刊行された紀行作品。元禄2年(1689年)3月27日に採荼庵を出発してからのことが記されており、金沢には7月15日から24日まで滞在している。随行した曾良の旅日記では、7月15日に金沢の宿に入ってから連絡を入れ、初めて一笑の死を知ったとある。

3)松尾芭蕉 ⇒ 資料2

4)貞門 ⇒ 松永貞徳を中心とする一派。俳言を用い、縁語や掛詞を使用する技巧的な句を特徴とする。

5)談林 ⇒ 西山宗因を中心に据えた一派。貞門に飽きた人々が、奇抜さを競った。

6)松江重頼 ⇒ 資料3

7)蕉風 ⇒ 松尾芭蕉の広めた俳風。

8)貞亨4年 ⇒ 1687年2月12日~1688年1月3日

9)江左尚白 ⇒ 近江蕉門。医師でもあった。当初は貞門派。

10)夏草 ⇒ 松尾芭蕉が「おくのほそ道」平泉で元禄2年(1689年)5月13日に詠んだ「夏草や兵どもが夢のあと」。

11)丿松が催した追善 ⇒ 元禄2年(1689年)7月22日。芭蕉が金沢に逗留したのは、曾良の病と一笑の追善のためか。

12)乙州 ⇒ 大津の荷問屋・河合乙州。江左尚白に師事。商用で金沢に滞在していた折、「おくのほそ道」で立ち寄った芭蕉と会い入門。以降、近江蕉門の重鎮として、経済的にも芭蕉を支える。



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