1848年?~1874年(明治7年)10月10日
「たよるべき宿へは遠し秋の暮」という句は、橋本諦助という人が詠んだもの。彼は、江戸末期の阿波の農家に生まれ、俳諧の魔力に取り憑かれた。
おそらくは、家族の影響で句を詠み始めたのだろうが、家に背を向け全国行脚。極貧に身を投げ打ち、俳諧仲間に拾われながら食いつなぐも、明治になった東京で、病に倒れて死んでしまった。
品川の来福寺に葬られたというから、大島蓼太の流れを汲む俳人だったのだろう。幸運にも、阿波藩ゆかりの寺に骨を埋めることにはなった。
ただし、その故郷は大変なことに。本来ならば働き盛りの26歳になる男が、乞食同然の姿で、異郷の土となったのである。親類は、腫物に触るかのような扱いで、橋本家の墓地に名前は刻んだ。唯一残されていた掲句を、墓碑の裏側にして。
この一句が、しかし、特別な男を生んだ。橋本夢道ーーープロレタリア俳句を語る時、外すことの出来ない人物である。
少年時代、墓の裏側にまわったことが、全ての始まり。そこに見つけた叔父の句は、小学生の心をも鷲掴みにした。そして、父の反対を押し切り身を投じた世界に、夢のような道が開けたのである。
尤もそれは、茨の道。青年となってからは、商社の番頭の地位を捨ててまで俳句に没頭し、ついには新興俳句弾圧事件に連座。2年もの獄中生活を送る。それでも諦助の句は、彼の頭を離れなかった。いや、苦境に立たされるほどに、より鮮明になって浮かび上がったに違いない。
たよるべき宿へは遠し秋の暮 諦助
ほかに何ひとつ知られていない諦助の句。家も財産も全てを捨てて、徘徊した果てに見つけた男の辞世。それが、新たな時代の旗手を育んだのである。
【補足】
プロレタリア俳句ゆえに前職を解雇となった夢道は、次に商店の支配人となった。その時、「みつまめをギリシャの神は知らざりき」「君知るやこのみつまめの伝説を」のキャッチコピーで売り出したものが「あんみつ」。
橋本諦助という人がいなければ、今日「あんみつ」はなかったし、「あんみつ姫」も生まれなかった。
諦助の目指した宿は、どんなところだったのだろう・・・
橋本諦助に関する補足
1)品川の来福寺 ⇒ 資料1
2)大島蓼太 ⇒ 資料2
3)橋本夢道 ⇒ 資料3
4)新興俳句弾圧事件 ⇒ 反戦俳句を掲載した「京大俳句」が契機となり、治安維持法に基づく俳人に対する言論弾圧事件が起こった。「俳句生活」を創刊した夢道は、1941年に捕まった。