???~1825年(文政8年)3月5日
蕎麦御三家の一つ「藪蕎麦」。有名な神田藪蕎麦は、団子坂の竹藪の中の蕎麦屋「蔦屋」の流れを汲むが、おそらくその蔦屋も含め、藪と称する蕎麦屋の起源は、雑司ヶ谷の「爺が蕎麦」にあろう。
爺が蕎麦は、雑司ヶ谷鬼子母神近くの竹藪の一軒家で、「雑司ヶ谷籔の中」と呼ばれて、江戸でも指折りの名店だったという。1735年刊行の「拾遺続江戸砂子」で、「藪」の名をもって登場する最古の「藪蕎麦」である。そして江戸中期となって戸張富久が活躍する頃には、「蕎麦全書」に、その名も「藪の中爺がそば」として掲載される。ただ、蕎麦は美味いが汁が悪いものだから、そば汁を持参して食べに行く者がいたとか。
戸張富久は、喜惣次とも称し、御用彫金で知られる、後藤四郎兵衛の高弟である。国立博物館に収蔵されるほどの小柄や、鍔などを製作する名工であった。
その名工が、どうやら「雑司ヶ谷籔の中」の主人だったらしい。「若葉の梢」(1798年刊)に「勘兵衛」の屋号で載る百姓の店が「藪」とあるから、それを買い取ったものなのだろう。狂歌の大田南畝は、蕎麦屋の富久のことを「見渡せば麦の青葉に藪のそば きつね狸もここへ喜惣次」と歌っている。
鬼子母神の本院である法明寺に、戸張富久の句碑がある。「蕣塚」と呼ばれるものがそれで、得意とした朝顔を、死した富久に代わって友人の酒井抱一が彫り込んでいる。句は、「蕣や久理可羅龍のやさすがた」。朝顔を、不動明王の剣に巻きつく倶利伽羅龍に見立てたものだ。
決して蔦ではない。「朝顔の花一時」の慣用句もある、刹那の花としたところに味がある。燃えるような現を生きる苦しみを、「爺」と呼ばれた柔和な姿で耐え忍んだ末の一句であろう。
蕣や久理可羅龍のやさすがた 富久
人気の象嵌は、地金の中から発せられるような、深い輝きを持っている。小柄に彫られた朝顔の裏側に、しばしばこの句が確認されるという。
戸張富久に関する補足
1)戸張富久 ⇒ 別号に松盛斎・仙里など。生年は不明であるが、1850年頃であると考えられている。息子に、同じ金工の喜久がいる。経営していた蕎麦屋は、富久の死後ほどなくして閉店したといわれている。
2)後藤四郎兵衛 ⇒ 大判の鋳造と墨判および両替屋の分銅の鋳造を請負った後藤家の当主。富久の師は、十三代後藤延乗。
3)大田南畝 ⇒ 1749年~1823年。御家人で狂歌師。別号に蜀山人。
4)酒井抱一 ⇒ 1761年~1829年。権大僧都であり、江戸琳派の祖として知られる絵師。屠龍の号を持つ俳人でもあった。