正岡子規の俳句正岡子規
俳句のみならず、近代文学史に燦然と輝く金字塔。その早すぎた死が惜しまれるが、しかし、死に臨んですら自らがつくり上げてきた俳句の道を全うした。絶筆三句と呼ばれる一連の糸瓜の辞世。

向井千子の俳句向井千子
松尾芭蕉の高弟である向井去来。俳諧一家で知られる一族に、ひとり女性の名前がある。芭蕉もその才能を認めた女流俳人は、嫁いで間もなく、短い人生を閉じた。蛍の辞世句は、切なく悲しい。

榎本其角の俳句榎本其角
松尾芭蕉の一番弟子。芭蕉亡きあと江戸座を開き、「洒落風俳諧」を広めた。三囲神社の雨乞など、多くの伝説に彩られた俳人。その人生において、酒は欠かすことのできないもので、15歳から酒を始めたと詠んでいる。

戸張富久の俳句戸張富久
有名な彫金師で、藪蕎麦の元祖ともいえる蕎麦屋を雑司ヶ谷に営んだ。大田南畝や酒井抱一と交流し、「蕣や久理可羅龍のやさすがた」の句とともに彫金された朝顔の小柄などが人気だったという。

秋日庵秋之坊の俳句秋日庵秋之坊
芭蕉に「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」の句を贈られた俳人。「金沢に名高い風流の隠士」と言われ、清貧を貫いた人。その辞世で、自らの死を予言するかのようにして亡くなった。

立羽不角の俳句立羽不角
多くの俳諧師が居た江戸時代にあって、貧者に生まれて法眼にまで上り詰めた出世街道まっしぐらの人。ただ、他流には「化鳥風」と陰口をたたかれもした。それでも門下に千人をなし、芭蕉なき俳諧の世界を引っ張った。

橋本諦助の俳句橋本諦助
明治時代の初頭に客死した諦助の業績を知る者はいない。ただひとつの辞世を遺したということ以外は。その辞世も、故郷の山中に風化しようとしている。けれどもその辞世が、プロレタリア俳句に及ぼした影響は小さくない。

野村朱鱗洞の俳句野村朱鱗洞
殉教者にも譬えられた自由律の星は、スペイン風邪で呆気なく亡くなった。真純すぎるほどの句は、自由律俳句の可能性を示し、その死を哀しんだ山頭火は、四国遍路に旅立つ前、その墓を探し求めた。

藤野古白の俳句藤野古白
正岡子規以上の能力を持っていたとも言われている男が、子規の従弟である藤野古白。けれども、恋に破れてからおかしくなり、ついには拳銃自殺。子規は、「春や昔古白といへる男あり」と詠んでその死を惜しむ。

河合曽良の俳句河合曽良
「奥の細道」に随行し、もっとも有名な松尾芭蕉の弟子となった河合曽良。5歳年長の芭蕉は、その実直な性格を愛した。最後は、ようやく抜け出た貧困から筑紫に向かい、壱岐の地で客死。芭蕉の死から、およそ15年後のことである。

岩田涼菟の俳句岩田涼菟
伊勢派の重鎮である岩田涼菟は、近松門左衛門の「曾根崎心中」にも影響があったと言われる俳人。こころの赴くままに句を詠み、近所の桜を詠むつもりで出かけたところが、長崎に辿り着いたという逸話もある。

小杉一笑の俳句小杉一笑
松尾芭蕉が金沢にたどり着いた時、会うのを楽しみにしていた俳人は亡くなっていた。芭蕉に「塚も動け我泣声は秋の風」の句を手向けられた早世の俳人。辞世は「心から雪うつくしや西の雲」。

久保より江の俳句久保より江
猫の俳句で名を残す女流俳人は、夏目漱石の「吾輩は猫である」や泉鏡花の小説で取り上げられるなど、近代文学で特別な場所に立っていた。虚子も「有数なる作家」と評した俳人が今、忘れ去られようとしている。

神野忠知の俳句神野忠知
「白炭の忠知」として名を馳せた俳諧師は、切腹して果てたことが知られている。それは大きな話題になったと見え、勧善懲悪本の主人公にもなっている。辞世は「霜月やあるはなき身の影法師」。