藤野古白

1871年9月22日(明治4年8月8日)~1895年(明治28年)4月12日

藤野古白の俳句明治二十八年春、古白の自殺を知った子規は、「春や昔古白といへる男あり」と詠んだ。子規にとって古白は4歳年下の従弟であり、高く評価していた弟子でもあった。けれども古白の方は、華々しく活躍する子規をライバル視していたとも言われている。
同じ語を冠する子規の「春や昔十五万石の城下哉」は、同時期に詠まれたものである。故郷松山の春の穏かさを詠んだもののように理解されることが多いが、従軍途上で寄港した広島の宇品から対岸を望み、在原業平の「月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして」に託して、変わりゆくものの憐れをうたったものと言うべきだろう。

その古白の変節は、恋にあったと言われている。二十の頃、それまで従順寡黙だった男が、隣家の女性のために饒舌になったと。
しかし、操り切れない恋情は、男を狂人へと変えていく。向き合える人間になろうと早稲田の門を叩いたというが、他者に耳を貸さない性が露となり、自らを「天才」と称す。
実際に、天才ではあった。鳴雪はその俳話に子規と古白を比較し、「子規より早く新調の風を得て居つた」と述べ、「先天的の能力は古白の方が余計に富んで居た」とも言っている。
ただ哀しきは、心中の矛先が明らかになるほどに浮き立つ孤独。最後に表した戯曲「人柱築島由来」は、やり場のない心の末路を松王に委ねて探り、「非礼は礼を騙り、無道は道理を騙り、不仁は仁義を騙り…この世は悪魔の騙る浄土なり」と語った上で、「申さじ言わんの胸の裏、潮となって湧くならば、消えゆく泡は世の中の、栄華の夢とご覧ぜよ」と言って、女の自死を見届けた上で最期を迎える。

戯曲の如く自殺を図ったのは4月7日。常に死を口にしていたため、仲間内からは「口先だけだろう」と囁かれていたが、盗んだピストルが激しく火を噴く。
先ず放たれた頭上からの一発は後頭部を掠めただけだったが、二発目が額に留まる。爆音に気付いた家族が駆け付けた時、既に助かる見込みはなかった。
一説には、「人柱築島由来」の不評を嘆いてのことだとも言われているが、その前から自殺願望を抱えていたことは明らか。ひとつの失恋が世の不条理を連鎖的に炙り出し、生きるのが下手な繊細な男を崩壊させてしまった・・・

乞食を葬る月の光かな 古白

行き場を失くした独善が、世に知らるべき宝を奪った瞬間である。



藤野古白に関する補足

1)藤野古白 ⇒ 資料1

2)子規 ⇒ 正岡子規

3)春や昔古白といへる男あり ⇒ 「寒山落木巻四」所収。同時期の子規の俳句に「春や昔十五万石の城下哉」

4)古白の変節 ⇒ 川東碧梧桐「子規を語る」 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション

5)鳴雪 ⇒ 内藤鳴雪

6)鳴雪俳話 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション

7)人柱築島由来 ⇒ 青空文庫