榎本其角

寛文元年7月17日(1661年8月11日)~宝永4年2月30日(1707年4月2日)

榎本其角の俳句松尾芭蕉第一の高弟として知られる榎本其角。14歳でその門を叩き、師なきあとは江戸座を開き、「洒落風俳諧」を広めた。
大名をはじめ多くの著名人とつながりを持ち、当時は芭蕉以上に人気があった俳人だったとも言える。そして、様々な伝説に彩られる俳人でもあった。
特に知られているのは酒との縁の深さで、「大酒に起きてものうき袷かな」などの句がある。「十五から酒を飲み出て今日の月」の句から見るに、酒を飲み始めたのは芭蕉の許に来てからである。芭蕉は、酒の作法も教えたのだろうか。
いずれにせよ、常に酒の切れることのない暮らしをしていて、吉原に入り浸っていたという。ただ、多くの秀句を遺しているところから、自堕落な飲み方ではなかったのだろう。「今朝たんと飲めや菖の富田酒」などの回文による句もあるところを見ると、酒を飲んでも頭脳明晰、いや、酒を飲むからこそ頭の血の巡りが良くなったのかもしれない。

けれども、38歳となった年に「酒ゆえと病を悟る師走哉」の句を詠む。その後も体調は優れなかったと見え、47歳で亡くなっている。
辞世は、死の7日前に詠まれた「鶯の暁寒しきりぎりす」。この「きりぎりす」は、現在でいうキリギリスではなく、コオロギのこと。コオロギの中には、越冬するカマドコオロギもあるから、春の鴬との取り合わせも無理なことではない。

自らの姿と重ね合わせた「きりぎりす」。それは、芭蕉が斎藤実盛を詠んだ「むざんやな甲の下のきりぎりす」に相通じる。これらの「きりぎりす」に共通するのは、百人一首に選ばれた後京極摂政前太政大臣の「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む」に表れる孤独感である。
この辞世を口遊む時、華々しい人生の裏側にある寂しさを思わずにいられない。名が知れ、成したことも多くある故、次代を担う鴬の明るい声に覚えるのは、この上ない侘しさだったのだろう。

うすらひやわづかに咲ける芹の花 其角



榎本其角に関する補足

1)榎本其角 ⇒ 資料1

2)松尾芭蕉 ⇒ 資料2

3)斎藤実盛 ⇒ 平家物語「実盛最期」で知られる武将。木曾義仲追討で老齢を押して白髪を染めて出陣し、篠原の戦で討たれる。敵であった義仲ではあるが、かつての恩人の死に涙を流した。