立羽不角

寛文2年(1662年)~宝暦3年7月21日(1753年8月19日)

立羽不角の俳句世渡り上手の評判で、貧困の中に身を起こし、法眼にまでのぼり詰めた立羽不角。門弟千人を誇ったことから、千翁との名もある。
蕉風全盛の江戸の町では、譬喩を多用する句風が合わなかったのか、その流派を「化鳥風」と呼んで蔑んだ。おそらくは、「芳里袋」に載る不角の跋「身は風鳥のいでたち、何にかかわるべき姿ともおもほえぬよすてびと・・・」から作り上げた名ではあろうが、町民は、化鳥と言われる鵺のような掴みどころの無さを感じて恐れたか。
たしかに、その出で立ちは化け物のようでもある。

この人は、12歳で不卜門を叩き不角の号を得る。その後、経師の店を開きながら浮世草子や怪談集を著して出版するも、あまり当たらなかったと見えて、前句付興行に重点を移す。やがて、それら前句付興行の高点句を句集にして刊行。5句1組で投句料が25銭という安さも手伝い、上京してくる地方藩士を中心に大いに繁盛。ついには、備前岡山藩主池田綱政の後ろ盾を得たのである。
この池田綱政の力添えで、まずは法橋の地位を賜ることになるが、世間はやっかみもあってか、綱政の「夏の夜や長居はふかく(不角)早帰れ」の句に、「蚊(か)の歯も立たずかしこまりだこ」と付けたことを、得るもののために阿っていると批判したのである。

けれども不角は、地位を目的に綱政に従ったのではない。身分あるものに恥をかかさぬために法橋になりたかったのだとの言がある。
何より不角は、自らの名を知らしめて、さらに多くの人との言葉遊びを楽しみたかったのだろう。ついには自らの姓も「立羽根」から「立羽」に改め、名前を「たちばふかく」にしてしまった。

立場不覚になったとは言え、うつつの姿を心得ていたし、帰りゆく場所も知っていた人。辞世は、

空蝉はもとのすがたに返しけり 不角



立羽不角に関する補足

1)立羽不角 ⇒ 資料1

2)法眼 ⇒ 僧位の第二にあたる位階にちなんで、連歌師などに授けられていた敬称。

3)蕉風 ⇒ 松尾芭蕉の広めた俳風。

4)芳里袋 ⇒ 1694年友鴎編の俳諧集。

5)不卜 ⇒ 岡村不卜

6)浮世草子や怪談集 ⇒ 不角の浮世草子に「好色染下地」(1691年)や「花染分」(1692年)、怪談集に「怪談録」(1692年)などがある。

7)前付句 ⇒ 現代の川柳のもとになったとも言われている。当時の俳諧の世界では、発句を重視する傾向にあり、前句付は下に置かれる傾向があった。

8)5句1組で投句料が25銭 ⇒ 現代の金額で300円くらい。

9)法橋 ⇒ 僧位の第三にあたる位階にちなんで、連歌師などに授けられていた敬称。

10)空蝉はもとのすがたに返しけり ⇒ 江戸川区の萬福寺に、この辞世を刻んだ不角の墓がある。墓石に刻まれた命日は6月21日である。