野村朱鱗洞

1893年(明治26年)11月26日~1918年(大正7年)10月31日

野村朱鱗洞の俳句自らの死の一年前となる昭和14年秋。遍路となることを決めた山頭火は、四国・松山の夜雨に打たれた。目的は、早世の同志・朱鱗洞の墓参り。
その来訪は、地元紙も取材に訪れるまでの注目を浴びた。けれども、墓所であるはずの寺には何も残されておらず、落胆しながらも山頭火は、仮の墓石を定めて手を合わす。それを不憫に思った友人が、三日をかけて辺りを探し回り、ようやく探し当てたのは真夜中。朝を待つように引き留める友人がいたが、その手を振りほどいた山頭火は目に涙を湛え、雨に打たれながら墓参した。

それほどまでに山頭火を刺激した朱鱗洞は、二十年余り遡る秋に、流行初期にあったスペイン風邪で斃れた。自由律の星として光を放ち、気力も充実していたであろう二十代半ばにして。
松山では子規の再来とも目され、海南新聞の選者として、ホトトギスの生地に旋風を巻き起こした。その句は飽くまで透明であって、師である井泉水は「礼讃」の中で「朝に咲く短い命の花にある清らかさと薫りにも似てゐる」と述べ、殉教者に擬している。
たとえばその句「いつまで枯れてある草なるぞ火を焚くよ」。終には萎む営みの中にも何かを求め、明日の希望につなげようとした男が居る。井泉水はそれを「真純すぎるほど至醇」と表現するがまた、「天分を受けたが為めに…」天命を全うできぬひとでもあった。
不意の帰天を命ぜられた朱鱗洞は、その晩年に

いち早く枯れる草なれば実を結ぶ 朱鱗洞

と詠んでいる。枯れることなきものなら、どんな花を誇っただろう。



野村朱鱗洞に関する補足

1)野村朱鱗洞 ⇒ 資料1

2)山頭火 ⇒ 種田山頭火

3)子規 ⇒ 正岡子規

4)海南新聞 ⇒ 愛媛新聞の前身。子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」が発表されたことでも知られる。

5)ホトトギス ⇒ 1897年創刊の俳句雑誌。正岡子規の友人・柳原極堂が松山で創刊。1898年に、東京で高浜虚子が継承。保守俳壇の最有力誌として君臨していた。

6)井泉水 ⇒ 荻原井泉水

7)礼讃 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション