河合曽良

慶安2年(1649年)~宝永7年5月22日(1710年6月18日)

河合曽良の俳句おくの細道に随行した曾良は、今日では最も有名な芭蕉の弟子。ただ、蕉門十哲に含まれるかといえば微妙なところで、多くは外される傾向にある。

この寡黙な男の人生は、決して平たんなものではない。生まれてすぐに養子に出されるも、養父母を亡くし、親類を頼る。その親類のおかげで伊勢長嶋藩に仕官するも、神道に惹かれて、30歳前後で浪人の身。以降は貧しい暮らしにあったと見られ、芭蕉は「深川八貧」の一員に数え上げている。

尤も、その芭蕉からの信頼は厚く、「雪丸げ」(1686年)には、

曾良何某は、此のあたり近く、假に居を占めて、朝な夕なに訪ひつ訪はる。わが喰ひ物いとなむ時は、柴を折りくぶる助けとなり、茶を煮る夜は、来りて氷を叩く。性隠閑を好む人にて、交金を断つ。或る夜雪に訪はれて、
 君火を焚けよきもの見せむ雪まろげ

とある。芭蕉庵近くに居を構え、無償で穏やかに芭蕉の世話をしていたことが分かる。「鹿島詣」や「おくの細道」に誘い出されたのも、当然のことだったのだろう。そして旅においても、詳細な事前調査は芭蕉を喜ばせたし、遺された「曾良旅日記」は、今日の芭蕉研究に欠かすことの出来ないものとなっている。
けれども曾良の句は、そんな実直な性格からは想像もできないほどの無邪気さに溢れている。特に、最後の句と見なされる「春に我乞食やめてもつくしかな」はどうだろう。

この句は、60歳を超えて江戸幕府巡検使に選ばれ、九州に派遣されることが決まった時のものである。それまでは六十六部として、乞食同然の放浪生活をしていたと見られる曾良が、驚くほどのまとまった金子を得て、九州の旅を楽しみにする中で詠み上げた。
「つくし」には、派遣先の「筑紫」に「土筆」が掛けられている。「金をもらってつくしを摘む必要がなくなったというのに、またつくしかよ・・・」というような感じだろうか。この人は、自らの置かれた立場を、常に楽しんできた人のように思う。
結局、訪れた壱岐で死んでしまうが、それも覚悟の上の旅だったのだろう。二十年遡る山中での芭蕉との病の別れにこそ死を見出し、

行行てたふれ伏とも萩の原

と詠んでいる。空の風の如き爽やかな人生を体現したひとである。



神野忠知に関する補足

1)河合曽良 ⇒ 資料1

2)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉

3)蕉門十哲 ⇒ 松尾芭蕉の優れた高弟10人を指す語であるが、其角嵐雪去来丈草以外は諸説ある。

4)深川八貧 ⇒ 江戸深川の芭蕉・曽良・路通・依水・苔水・友五・夕菊・泥芹。元禄元年12月17日に、この8人で「貧」にちなんだ句を詠んだ。

5)雪丸げ ⇒ 河合曽良編「雪まろげ」 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション

6)鹿島詣 ⇒ 貞亨4年(1687年)、中秋の名月を見ようと、曾良・宗波を伴い鹿島の仏頂和尚を訪ねた芭蕉の旅行記「鹿島紀行」。

7)おくの細道 ⇒ 元禄2年(1689年)3月27日からの、芭蕉のもっとも有名な旅行記。

8)曾良旅日記 ⇒ 「おくの細道」の行程を記した曾良の日記。昭和13年に山本安三郎によって発見された。

9)江戸幕府巡検使 ⇒ 江戸幕府が諸国の情勢調査のために派遣したもの。巡見使随員として曽良は参加し、3月1日に江戸を発ち、5月22日に壱岐で病気のために客死。

10)六十六部 ⇒ 諸国の寺社に参詣する巡礼者。古くは、法華経を66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。

11)山中での芭蕉との病の別れ ⇒ 元禄2年「おくの細道」の「山中」に「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、行行てたふれ伏とも萩の原 曾良 と書置たり。行ものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉」とある。



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