秋日庵秋之坊

生年不詳~享保3年1月4日(1718年2月3日)

秋日庵秋之坊の俳句極限の生活こそが、人生を彩る言葉を提供してくれる。しかしそれも、真の静けさを身につけてこそ。

幻住庵を訪ねた秋之坊。その遁世者を、「我宿は蚊のちいさきを馳走かな」の句で迎え入れた芭蕉。つまり、豪華に振舞えるものはここにはないが、蚊の羽音のような、世に蔓延る喧騒からは隔離されていると。
退出時には「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」を贈答句とし、やはりここでも、騒がしくあれば死場を見失うものだと、秋之坊は諭される。
清貧を貫いたことで知られる秋之坊であるが、この時までは、幾らかの色気があったのだろう。「金沢に名高い風流の隠士」と言われ、それを鼻に掛けていたところがあったのかもしれない。いや、むしろ名を得るために敢えて武士を捨て隠士となって、西行らしきものを声高に叫んでいたとも思われる。

芭蕉に会って以降の秋之坊は、真の求道者である。ある時は寒さに耐えかね、「寒ければ山より下を飛ぶ雁に物打荷ふ人ぞ恋しき」と、「山」「厂」「物打」「人」から「炭」を形成する和歌を詠み、炭を請うた。虚飾を去り不足を恐れぬ中で、その日を生きるために言葉を選ぶ男が現れたのである。
それはやがて、人生を天に委ねる証を立てたいとの思いにつながり、自らの生を型にはめ、それに忠実に生きたいと願うことにもなる。句による暦作りに着手し、

正月四日よろづ此の世を去るによし

と記したまさにその日、この世を去ったのである。
世間では、兆候の無い死であったと言われている。居合わせていた李東は驚いて、「稲つむと見せて失せけり秋の坊」と詠んでいる。
けれども、定められた日に沿って、自ら命を絶ったように思えてならない。三箇日の神事を終えて残されたるは、浄土への道ひとつであると。「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」の贈答句への返礼とすべく。



秋日庵秋之坊に関する補足

1)秋日庵秋之坊 ⇒ 秋の坊

2)幻住庵 ⇒ 門人の菅沼曲水の世話により、元禄3年(1690年)4月6日から7月23日まで松尾芭蕉が住んでいた庵。現在の滋賀県大津市にある。

3)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉

4)西行 ⇒ 鳥羽天皇の北面武士であったが、23歳で出家し和歌を歌いながら全国行脚した西行法師。

5)寒ければ山より下を飛ぶ雁に物打荷ふ人ぞ恋しき ⇒ 貧しさの中で寒さに耐えかね、豪農である生駒萬子に炭をもらおうと歌った。萬子は「さむければ山より下を飛ぶ雁に物うち荷ふ人をこそやれ」と歌って炭を贈っている。

6)李東 ⇒ 地方の大庄屋で、秋之坊とは俳諧つながりであった。



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